Episode 349 まともなケンカができません。
「おまえのかあちゃん、でべそ!」と言えば、子どものケンカに登場する本来のケンカの目的に全く関係ない罵り合いの結末で、ここまでくると手が出て取っ組み合いか、第三者が強制的に排除するか…の二択。
私も幼いことに経験したことがあります…。
ケンカに至る過程は様ざまだと思いますが、大概の場合は「意見の相違」でしょうね。
私の意見とあなたの意見が違うことに対して、折り合いがつかずに揉める。
私はケンカを推奨しているワケではありませんが、この折り合いがつかないということは、とても大事な「心の理論」の発見に違いないと思うのです。
ケンカは意見相違の発見を促してくれている…のかな。
ただ、これにはお互いに自分の意見をぶつけ合うという前提があってですね、「あなたの意見は私の意見と相いれない」ということを対等の立場で考えなければいけないわけなのですよ。
私は多分…これが上手にできなかったのです。
何故ならば、あなたの意見なんて眼中にないですから。
私にとって言葉とは上級者から指示を受け渡す言語であって、対等な立場で意見を確認するツールではなかったのです。
詰まりですよ、端からあなたの意見を聞く用意なんてないのです。
指示系統が違う相手から何を言われても並行線のままなのです。
「あなたに指示される筋合いはない」以上です。
結果、冒頭に戻ってケンカになるワケですよ。
子どものケンカの場合、当事者間で手に負えなくなった時に保護者(監督者)が仲裁に入るのが一般的。
仲裁に入った大人はケンカ両成敗のうえで、意見を聞いて、折り合える着地点の提案を行って仲直りを促すわけです。
この時にあなたの意見と私の意見の相違を解説されて、少しずつ自他の境界線を理解するハズ…。
でもね、私はそうではなかった。
あなたの意見と私の意見はいつまで経っても折り合わないし、あなたに意見があることは認めない。
なぜならば、私の意見は「目上の人」から指示された内容だから。
その場のケンカが丸く収まるのは、目上の人が意見をまとめて着地点を「指示」してくれたからであって、あなたの意見なんてこれっポッチも聞いてませんから。
振り返ってみて、見た目上は順調に成長しているように見えた私は、会話というコミュニケーションツールの獲得が出来なかったのだと思います。
そのベースになったのは、幼いころの言語獲得が「痛みを伴った約束・ルール」に集約されていたからだと私は思うのです。
旧ブログ アーカイブ 2019/8/29