クロノスタシスって知ってる?
あなたは運命というものを信じるだろうか?
正直私にはわからない。もしも運命があるとするならば、それを作った神様はひどく意地悪だ。
当人たちの思いや願いなんて全く聞き入れず、圧倒的なうねりを持ってあるべき場所へと流してしまう。
今日これから書くことは、本来なら胸の内にしまっておくべきものだ。
でも、あえて書いてしまおうと思う。
今年、青春をともに過ごした親友が死んだ。ずっと一緒に時を刻んでいくんだろうと信じていた。でも、現実はあっけないものだった。
私だって、来年・・・いや、明日、今日にも死んでしまうかもしれない。
死んだときに何も残っていない人生なんて嫌だ。
よく生前整理をして死後になにも残したくないという人がいるが、私は自分が生きた証をありったけぶちまけて死にたい。
だから、備忘録として、この話を書き留めておこうと思う。
いや、格好つけてしまった。
本当は、私は来月結婚する。6年間付き合った彼女と。
かつて一生童貞として過ごすことを受け入れていたあの頃を考えれば、想像もしなかったような幸せを掴むことになる。
けれどその前に、区切りをつけておかなければならないことがある。
胸を張って自分の人生を歩めるように。
第一章 出会い
その子との出会いは実習先の病院だった。
本当は関東の病院に実習へ行くはずだったのだが、学校に無理を言って、地元の実習先にしてもらっていた。
そうすれば地元の友達と遊べるし、実習にもリラックスして臨めると思っていたからだ。
しかし、生まれついてのコミュ障である私は、うまく実習先の雰囲気に溶け込めずにいた。
周りの実習生は皆20歳前後。私は社会人を経由しているため28歳だった。
それもあって、うまく馴染むことができなかった。
ある日、いつもどおり一人で昼食を食べていると、実習生の一人が声をかけてきた。
どんな言葉かは忘れたが、「どこの学校ですか?」とかそんな感じだったと思う。
年下の女の子に話しかけられることに慣れていなかった私はテンパってうまく返せなかったが、彼女は気にしていない様子だった。
それから、少しずつ彼女と話すようになっていった。
その子は周囲の人たちと違い、人の本質を見るような性格だったから一緒にいると落ち着いた。
もうひとり、仲良くなった実習生がいた。彼は私と同じように一度社会人を経由して学生になったタイプで、30歳だった。
下宿先が同じ建物だったこともあり、よく一緒に帰るようになった。彼は典型的な関西人といった感じで、社交的で面白い人だった。
そんなこんなで私たち3人は一緒に食事をしにいったり、ドライブをしたりするようになった。
「耐えればどうにかなる」と思っていた実習が、「あの二人に会える」といった前向きなものに変わっていった。二人には本当に救われた。
そんなこんなであっという間に実習が終わり、別れの時がきた。
思えば3人とも帰る場所はバラバラだった。東京と沖縄と兵庫。
もしかしたら二度とこの3人で集まることはないのかもしれないと思った。
だから、私は3人が必ず再開するようにと詩を書いて二人に送った。
再会を誓って、兵庫の彼は一足先に帰っていった。
私も沖縄にいる時間は残りわずかだったが、残された2人で時を惜しむように一緒に過ごした。
彼女のおすすめのパン屋へ行って、それを公園で食べて、「エモい」という言葉について議論し、動画を撮って兵庫の彼に送ったりした。
彼女と一緒にいると無理せず自然体でいられることができ、平凡な日常の中にいくつもの小さな幸せを見つけることができた。
それはおそらく、彼女が見ている世界を一時的に共有できたからなのだと思う。
心根の優しい素敵な子だと思った。兵庫の彼からもいろんなことを学んだ。
本当にこの3人に出会えて良かったと今でも思う。
第二章 クロノスタシス
東京のせわしない街の中で薄汚れてしまった私にとって、彼女の素朴さはとても眩しく、羨ましく思った。
彼女はまだ20歳で、若いというのもあるだろうが、いつまでもそのままでいてほしいと思った。
そしてそれを詩に書いて、東京へ帰る間際に彼女に渡した。
正直、詩を渡されて嬉しいと感じる人は少ないだろう。実際のところは気持ち悪いと思う人のほうが多いことは分かっていた。
私は詩を渡そうか躊躇したが、それで嫌われるならそれまでの関係だし、なにより彼女は人の想いを邪険に扱うような性格ではないことを知っていたから、思い切って渡した。
彼女は驚いた様子だったが、「ありがとう」と笑ってくれた。
そして私は東京へ戻り、いつもの日常を送っていた。
ふと彼女のLINEのアイコンを見ると、私が渡した詩の封筒の写真になっていた。
その日はいつもより、仕事を一生懸命頑張れた。
それから半年以上の月日が流れ、私は就職の前に一度地元へ戻ることになった。
久しぶりに彼女に連絡すると、予定を空けてくれることになった。
まだ実家に自分の車が残っていたため、私が彼女を迎えにいくことにした。
半年ぶりの再会だったため、かなり緊張していたが、実際に会うと彼女は何一つ変わっておらず、すぐに肩の力が抜けたのを覚えている。
彼女が行きたいお店があるというので、そこで夕食をとることにした。
その店は坂道に並んでいるこじんまりとした住宅街を抜けた先にあった。
そこに店があると知っていなければ決してたどり着けないような場所だった。
ようやく到着すると、私たちは顔を見合わせて笑った。閉店時間を過ぎていたのだ。
もう一つ行きたいお店がある、と彼女が言い、私は「もちろん」とハンドルを握った。
こんなハプニングさえ、彼女といると楽しいものに思えた。
私は内心、店が閉まっていてホッとしていた。自分でも不思議な感情だったが、次の店に向かいながら彼女と話しているうちに、その理由が分かった。
おそらく私は、店が閉まっていたことで彼女と一緒にいられる時間が少しでも伸びたことが嬉しかったのだ。
それに気づいたとき、もしかしたら私は彼女に好意を持っているのかもしれないと思った。
友情とも恋ともつかないような、感じたことのない感情だった。
しかし、その当時二人とも恋人がいたこともあり、私はその感情を振り払った。
しばらく車を走らせていると、目当ての店についた。その店はまだ開店していた。
店内に入ると、薄っすらとムードの良いジャズが聞こえてきた。明かりは間接照明のように落ち着いた感じだった。
横並びにカウンターへと座る。カウンターの目の前には大きな窓があり、その向こうには海が広がっていた。
まるでジブリにでも出てきそうな店だった。
二人でおしゃれなサンドイッチを注文し、素敵な店だね、と話していると、カウンターにどこからともなく猫が現れた。
猫は私たちを注意深く眺めた後、安全そうだと思ったのか、私ではなく彼女の膝の上に座り込んだ。
どうやら店で飼っている猫らしい。
店主が「すみません、今どけますね」と気を使ってくれたが、彼女は「そのままでいいです」と笑った。
私はそれまで猫とあまり接したことがなかったが、彼女が猫を愛おしそうになでているのを見て、マネしてなでた。
きれいな毛並みで人見知りをしない猫だった。
しばらく猫を愛でていると、彼女が「ちょっと限界。足おろしても良い?」と猫に聞いた。
彼女は猫がバランスを崩さないよう、ずっとつま先立ちで高さを調整していたのだ。
なんて優しい人なんだろう、と私はいたく感心した。いつのまにか、私は猫ではなく彼女に見入っていた。
猫をなでる優しい手つき、寝かしつけるような穏やかな言葉、海風に揺れる髪、かすかなシャンプーの香り。店内では相変わらずムードの良いジャズが流れていた。
食事を終えると、彼女は店主に「海のところに降りてもいいですか?」と訪ねた。店主は優しく頷いた。
店の脇から砂浜に降り、二人で海を眺めた。あいにく干潮だったが、濃い潮の香りは食後の腹ごなしには十分だった。
外はすっかり暗くなっていて、目を凝らせば星が見えた。
店の外には照明がついていて、砂浜を明るく照らしていた。
照明の光を浴びた二人の影は長く伸びてゆらゆらと動いた。
それを見て、私はきのこ帝国の「クロノスタシス」という曲の、
街灯の下で君の影が
ゆらゆら揺れて夢のようで
ゆらゆら揺れてどうかしてる
という一節を思い出した。なんとなく歌詞の意味を理解したような気がした。
しばらく海風を楽しんだ後、店主にお礼を言って店を出て帰路についた。
帰り道、彼女に「クロノスタシスって知ってる?」と尋ねてみた。彼女は「知らない」と答えた。
いい曲だから、と車内で曲を流した。
曲を聞き終えた後、彼女は「いい曲だね」と言った。
「クロノスタシスっていうのは、秒針が止まって見える現象のことを言うんだけど、この曲では”時間が止まってほしい“というニュアンスで使われてるんだ」と私が言うと、彼女は「素敵だね」と笑った。
帰り際、彼女は前に渡した詩のお礼を言ってくれた。
「受験でしんどかったとき、あの詩を何度も見て救われたんだよ」と。
詩を渡して喜ばれた経験がなかった私は、すごく嬉しい気持ちになった。
そして、東京へ戻る前日の日にもう一度会い、新しく詩を書いて渡した。
彼女は「宝物ボックスに入れておくね」と笑顔で言った。
今度は3人で会おうね、と手を振って別れた。
東京へ戻って彼女にLINEしようとアイコンを見ると、私が渡した新しい詩のタイトルが書かれていた。
第三章 運命
それから一年が経ち、彼女が東京へ旅行に来るという連絡があった。
一日だけでも会えないか、とのことなので快諾し一緒に夕食を取ることになった。
せっかく東京にくるのだから、と少しおしゃれなお店を予約し、当日を待った。
当日、私は自分がはじめて東京に来たときに道がわからずテンパったことを思い出し、「道分からなくなったら駅員ナンパすればいいよ」などと冗談を交えつつ彼女に待ち合わせ場所への詳しい道順を送っておいた。
仕事を終え、約束の場所で待っていると、彼女から電話があった。
駅にはついているが、出口がわからないとのことだったので、迎えにいった。
遠目からでもひと目で彼女と分かった。一年前となにも変わっていなかった。
それから一緒に店に入り、一年間の近況などを話し合った。
「空港ついた時不安だったから、あのLINE助かったよ。冗談も入ってたし」と彼女は笑った。
見た目だけでなく、彼女は内面も全く変わっていなかった。2年前にまぶしいと感じた素朴さはそのまま残っていた。
彼女は翌日別の人と遊ぶ予定だったのだが、その人が仕事で夕方まで空いてしまったのだと言った。
それなら、と私はチームラボのボーダーレス展に誘った。私も行ったことはなかったが、女の子が喜びそうだなと思ってのことだった。
私の予想通り、彼女はとても楽しんでくれた。
展示の中に子ども用のアスレチックがあったのだが、彼女は「あれやるー!」とはしゃいでは次々と参加した。
私も普段はそういうことをしないのだが、たまには無邪気にそういうのを楽しむのもいいな、と思って一緒に遊んだ。
彼女は私にないものをたくさん持っていた。
その後一緒にご飯を食べながら、お互い好きな異性の芸能人の話などをした。
彼女は唐突に「もう結婚したんですか?」と尋ねてきた。
急な質問にテンパって「まだだよ」とだけ答えた。なぜか来月結婚することについては伝えられなかった。
「そっちはどうなの?」と尋ねると、「もうとっくの昔に別れたよ」と彼女は笑った。
今は新しい彼氏がいるが、タイプが合わず別れ話を切り出している最中なのだという。
私は「へー」とだけリアクションをした。心のどこかで嬉しい気持ちと、彼女の不幸を心配する気持ちとが戦っていた。
その後数時間たったころに「あ、彼氏からLINEきた。別れることになった」と彼女は言った。
「え?今?」と私は焦った。なんせ女の子が失恋する瞬間に立ち会うのは初めてだったため、どう声をかけていいか分からなかった。
私の動揺とは裏腹に、彼女は冷静なように思えた。
そして再び他愛のない世間話に戻った。
しかし、私の心は複雑な想いでいっぱいだった。
彼女には今彼氏がいない、という事実が私をひどく混乱させた。
もしかしたらこの子と共に歩む人生もあるのでは、と一瞬だけ思った。
でも、自分には婚約している相手がいるし、彼女はとても大切な友達だ。
その関係を壊したくない、という想いも強かった。
もしも、と私は思った。
もしも今の婚約相手と出会う前に彼女に会っていたとしたら、私はきっとこの子を運命の相手だと確信しただろう。
価値観も合うし、尊敬できるところもたくさんあるし、私の詩も理解してくれる。
もしももっと前に出会っていたなら・・・。
そんな「もしも」が私の頭の中をぐるぐると回り続けた。
もしもこれ運命であるなら、これほど残酷なことはない。私は拳を固く握り込んだ。
決断すべき時なのではないか、と思った。
このまま結婚するなら、もう彼女とは一切会わないほうがいい。今は友情の範疇で収まっているが、想いは徐々に強くなっていくだろう。
私は自分の想いを断ち切るように、「新しい彼氏、早く見つかるといいね」と笑顔で言った。
彼女は「うーん」と渋い顔をした。
そして解散の時間になり、彼女の待ち合わせの場所まで電車で送り、手を振って別れた。
今回は詩は書かなかった。
もう、今後彼女に会うことはないかもしれない。
私は結婚という新しい道を歩まなければいけないし、彼女は新たな恋をしなければならない。
そのために、二人の人生はもう重なり合ってはいけない気がするのだ。
いずれお互い結婚して子どももできて、「あの頃が懐かしいね」と思えるようになったら、友達として再会したいとは思う。
でも、それはおそらく10年以上後のことだ。
今まで素敵な時間と思い出をありがとう。
君からはたくさんのことを学んだし、一緒にいると楽しくてしょうがなかった。
これから先、私とは関係のないところで幸せになるんだろう。
君にはその資格があるし、きっとそうなると確信している。
子どもが大好きだから、いつか元気な子どもを産んで素敵なお母さんになるんだろう。
君の子どもは、きっと君に似て素朴で心根の優しい子に育つと思う。
そして愛嬌のあるおばあちゃんになって、その素朴さは変わらないままで、長い人生を全うするんだろう。100歳まで生きたいと言っていた君だから、きっとそうなる。
私のいない世界で、私のそばではないどこかで、どうか幸せな人生を歩めますように。
さようなら。
ーーーーー
こんな話、ネット上で公開するようなものではないことは百も承知でしたが、どうしても文字にして整理しておきたかったのです。
ここまで長々と読んでいただいた方、ありがとうございました。
大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。