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ここ、どこだよ? その弐


 長いホームにやってきた電車はたった一両。(クモハ123)
 ただ、この写真は2009年の物。現在は2両程度の別の車両が走っている。
 2両や3両でも長すぎるホームの謎。

 ここは、 

中央本線小野駅(長野県辰野町)


 特急「あずさ」に良く乗るけど、そんな駅見たことないぞ。
 あずさはもうここを通っていない。今は短い編成の普通電車が走るのみ。
 本線と名はついても、今や辰野支線(岡谷-辰野-塩尻)と呼ばれる格落ちしたような路線。

 長年、中央本線は岡谷を出ると伊那谷に向かって走り、辰野で方向を変え塩尻に向かうと言う大回りをしてきた。伊那の政治家が無理矢理路線を引っ張ったとの話もあるが、実は、当時の技術で塩尻峠下を抜ける長いトンネルを掘るのは難しいと言う理由もあったらしい。
 その塩尻峠下を抜ける塩嶺トンネルが開通して新宿松本間の所要時間は短縮されたが、辰野支線は閑散としたローカル線になってしまったということ。
 トンネルができる前は長い編成の普通電車や、特急急行電車が頻繁に走っていた。その名残がこの長いホームの理由。

と、ここまでは鉄道の話。
 実は小さな盆地に栄えた小さな町小野は、ちょっと面白い。

 小野の駅前食堂ともいえそうな「お料理タイガー」。
 あの山下清画伯が逗留したところ。メニューは画伯が描いたデザイン。

山下画伯デザイン

 そして、蛇足だが(笑)あのテレ東の人気番組「ローカル路線バスの旅」太川蛭子バージョン第1回で食事に立ち寄ったのがこの店。
 この店は軍鶏(しゃも)かつが有名で、それが目的で私は小野を訪問した。
 これは中々うまいので、立ち寄る価値はアリ。

軍鶏かつ丼

と、ここまでは飯の話。

 ここからが本題。

 小野の町は、旧中山道の宿場だった。
 そして三州街道の宿場。つまり中山道と三州街道の交差点だった。
 ただ、中山道を歩く的な書籍を見ても小野は出てこない。
 実は、初期の中山道は下諏訪を出ると岡谷を通り、この小野を経て贄川へと抜けていた。しかし、このルートは十数年ほどで塩尻峠を越えて塩尻、洗馬、本山を通って贄川へと続くルートに変更されてしまったのだった。
 それ以降は三州街道の宿場として残ったのがこの小野だ。

往時の繁栄を忍ばせる小野家住宅

 三州街道沿いに残る小野家住宅は本棟造りで、屋根の上にこの地方独特の雀おどし(雀踊り)という棟飾りが施された特徴的な建物。小野家は問屋で、時として本陣のない小野宿で本陣の役割も果たしたと言う。

 ということで小野は昔ながらの風情を残す宿場町…。
 と、いうだけではない。

 本当の本題はここから。

行政上分断されている町

 そして、この町の不思議なことは、小さな盆地の小さな町が二つの行政区に分断されていること。町の北側は塩尻市北小野、南側は辰野町小野。
 こんな町はめったにないだろう。

国道にまたがる大鳥居

 時をさかのぼること豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だったころ、琵琶湖の南に金目教というあやしい宗教がはやっていた。…ではなく(怪しい宗教は今問題になってるよね)
 秀吉が天下統一していたころ、小野の地で飯田の毛利氏と松本の石川氏の領地争いが起き、秀吉が小野を流れる唐沢川を境と決めたと言う。以来、小野は二つに分断された町として今に至っている。
 村の鎮守とでも言うべき神社も二つに分かれている。小野神社と矢彦神社。この神社は隣り合って塩尻市北小野地区にある。が、辰野町小野の神社である矢彦神社の土地は辰野町の飛び地になっている。

これより北、塩尻市北小野
これより南、辰野町小野

 小さな町でありながら二つに分断されているのは不便だ。そこで、教育面では組合立両小野小学校、組合立両小野中学校とこの地域をまとめた学校が存在している。両とは当然塩尻市と辰野町のことだ。

と、小さいけれど面白い町。このほかにも、諏訪大社で有名な御柱だが、ここの小野神社矢彦神社でも同様の祭りが諏訪の御柱の翌年に行われる。
 また、横浜の発展に寄与し横浜正金銀行の頭取にもなった小野光景、筑摩書房創設者古田晁はこの小野の出身とのこと。

 軍鶏かつ、また食べたいなあ。

※2009年・2017年訪問。