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牧師を先生と呼ぶことについて
「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」マタイ23:8
昨年9月に岐阜市で開かれた「日本伝道会議」(プロテスタントの福音派が7年に一度行う集会)で、運営するスタッフの牧師同士がお互いに「〇〇先生」と呼ばないという取り決めをしていたということが話題となった。
プロテスタントのキリスト教会で牧師を「先生」と呼ぶ習慣は日本独特であり、その弊害については、ずっと前から指摘されてきた。
(「日本宣教論」 後藤牧人著 日本宣教論(107)先生という呼称 後藤牧人 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ (christiantoday.co.jp))
主イエスがマタイ23章で「先生と呼ばれてはいけない」と命じられたが、主イエスの意図も後藤氏の主張も、単なる呼称の問題ではなく、そこに牧師と信徒の関係性を歪める問題が潜んでいるからである。
日本では、医者や弁護士、国会議員など、権威のある人に対して「先生」と呼ぶ。これは中国語の「先生」とは違う日本独特の意味が込められている。
その日本で牧師を先生と呼ぶことは、牧師と信徒がどういう関係性なのかを暗黙の内に規定している。日本独特の縦社会の権威構造が、教会の中に持ち込まれてしまう。
さらに後藤氏の指摘によれば、医者や弁護士の権威はその人の全生活や全人格の領域までは及ばない。しかし牧師の権威はややもすれば信徒の全人格にまで影響し、それが永続的に続くのである。
もちろん、ほとんどの牧師は権威を振りかざすような方々ではなく、私も多くの尊敬すべき牧師を知っている。しかしその関係性が信徒の側で強く意識されているのは事実である。
教会に来て福音に触れ、救われて教会に初めて加わる多くの日本人は、牧師を「先生」と呼ぶ文化の中に「教会とはそういうもの」と思い込んでいくのだろう。私自身もそうであった。
しかし、そこでは健全は信徒の成長は期待できない。
社会全体が縦型の構造から、フラットで個人の尊重される社会に移行しつつある。インターネットの発達もそれを加速している。
学校教育も一方的な教育から、双方向的な学びへと変わろうとしている。
そのような時代に前時代的な教会のあり方で信徒が育つだろうか。
それどころか、カルト的とさえ誤解されかねない危険性をはらんでいる。
牧師の高齢化、牧師不足が深刻であることは今回の伝道会議に合わせて発行された「宣教ガイド2023」でも明らかで、信徒リーダーの育成が必要である。
そのような意識を持っている若い牧師たちがいることを知り、少しは安心した。
最近は「牧仕」や「牧士」という肩書を使う方も増えてきたようだ。
しかし、信徒レベルでその意識が変化するには時間がかかると思う。
今回の取り決めをこの会議中だけにとどめず、勇気をもって変革してくれることを期待したい。
(この原稿を書いている途中で、この議論をしている動画を発見しました。)
追記
マタイ23章の原語 先生はラビ、教師はマスター(導き手を意味し、教会の教師とは違うことば)
ここでは言葉の問題ではなく、権威主義的な姿勢の問題、11節で仕える者となれと言われている。
私が主張するのも、言葉の問題ではなく、内容である。ユダヤ教のラビと、日本語の先生は文化的背景が異なる。しかし日本の文化的背景における「先生」は内容においてやはり権威主義なのだ。