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冬の夜、 #シロクマ文芸部

/約4500字





 冬の夜、漕ぎ出したペダルはもう止まらなかった。

 

 何もかも投げ出したい気分だった。大したものも持っていない癖に、全部放り出してしまいたかった。これまでの自分は誰かに押し付けて、真っ新な何かになりたかった。


 どこにでもあるような中小企業に就職して四年。会社からはある程度の仕事を期待されるようになり、後輩の指導も俺の仕事に加わった。その後輩は優秀で、明るくて、誰からも好かれる、そんな奴だった。

 そんな奴だったから、仕事の覚えは早かったし、四年目の俺よりも会社に馴染んでいるように見えた。

 俺は自覚のあるコミュ障だ。人と話すのが得意じゃないし、どう話せば人を不快にさせずに済むかわからない。だから、すぐに人をイラつかせてしまい、避けられるようになる。被害妄想かもしれないけど。


 恋人はいない。大学時代に付き合っていた人と三年以上前に別れて、それっきりだ。
 彼女はとてもいい人だった。穏やかで、優しい。俺が話さなくても、言葉を間違えても、俺の気持ちを汲んでくれるような人だった。

 別れた原因は俺だ。就職したばかりの俺は、息をするのも精一杯というような具合で、少しのゆとりも無かった。休日もただベッドに沈み、ぐるぐると仕事のことを考えるだけの時間を過ごしていた。
 そんな有様だったから、彼女が別れを告げるもの当然だった。

「これじゃ、付き合っている意味ないでしょ。私が寂しいだけでしょ」

そんなことを言わせてしまった。ただ申し訳なくて、頭を下げ続けるしかなかった。


 友人もいない。会社の同僚たちは優しい奴が多いので、コミュ障の俺にも気を遣って飲み会なんかに誘ってくれる。それ自体は嬉しいので参加するが、約二時間ずっと気まずいまま酒を煽って過ごす。
 同僚たちの笑い声に交じるように喉を震わせ、中途半端に残った料理に手を付け、でも全部は食べ切らない。
 アルコールで浮ついた空気の中、俺だけがその恩恵を受けられず、重く沈んでいる。そうやって誰もが邪魔だと思うような異物に成り下がる。

 大学時代の同級生は就職を機にすっかり疎遠になっていた。


 嗚呼、もう、どうにでもなってしまえ。

 明日から年末年始の休暇に入るというタイミング。スーツを脱ぎ捨て夕食も食わないまま部屋着で床に転がった。
 もう、限界かもしれない。最近食欲もないし、ハマっていたゲームも最後に起動したのはいつだったか思い出せない。

 何もかも忘れて眠りたい。冷蔵庫を開け、酒を探すが入っているのは海苔の佃煮と賞味期限間近の卵だけ。
 仕方なく、コンビニに向かおうとダウンを羽織り玄関で靴を履くと、目に入ったのはチープな鍵。
あ、自転車。

 俺の人生には自転車がいつも近くにあった。自転車に乗れるようになった時、えらく感動したのだ。「どこまでも行ける!」と。
 自転車は徒歩と比べて各段に早く、簡単に遠くへ行けた。

 中学生の時には従兄から使わなくなった自転車を貰った。これまで子供用の鮮やかな青い自転車に乗っていた俺は、その銀色の何の変哲もないママチャリが大層大人っぽく見えた。

 高校は自転車通学をするということもあって、両親は六段変速ギアの自転車を買ってくれた。変速ギアのおかげで坂も軽く登れるようになったし、平地では少し漕ぐだけでグンと加速して走ることができた。しかも、黒いフレームがシックで格好良い。毎朝、それに跨る度に高揚した。

 大学ではバイト代を溜めて、少しいい自転車を買った。カーボンフレームのクロスバイク。カゴも泥除けも無かったが、泥除けだけは後から付けた。そしてドリンクホルダーも。
 俺が片手で持ち上げられるような軽さだったが、何キロも走れる強い自転車だ。その頃はそいつで遠くに出かけるのが好きだった。

 この鍵は、そいつの鍵だ。これまでの自転車は捨ててしまったり、実家に置いてあったりするが、コイツだけはここにいる。


 そうだ、コイツに乗ろう。コイツと遠くに行ってしまおう。ここに全部置いたまま、走り去ってしまおう。


 小さいアパートの狭い駐輪場の片隅に置かれたソイツに跨る。ぐっとペダルを踏みこめばすぐに加速して景色を置いてきぼりにする。
 狭苦しい住宅街から広い国道に出た。国道といっても、こんな時間になれば交通量は少ない。歩道と車道の間、あってないような隙間を走る。
ああ、信号が面倒だな。
ハンドルを切って堤防に向かう。


 堤防をただ真っ直ぐ走る。細い堤防だ。車通りどころか、街灯すらない、ひたすらな闇。風を切る音だけを拾う耳は痛さを通り越して感覚も無い。
 しかし、心臓は五月蠅いくらいの熱を持っている。前輪六つ、後輪六つあるギアを、どちらも一番大きくして漕ぐ。
ああ、重い。重いけど、それに比例するスピードは気持ちいい。そうだ、俺はこれが好きだったんだ。きっとどこまでも行ける。


 しかし、それも呆気なく終わる。

 何時間ペダルを漕いだかわからないが、それは唐突に俺の前に現れた。

この先工事中 立入禁止

 赤いライトが点滅するのが視界に入ると、ペダルを踏む足を止め、ゆっくりと減速する。
 そして、そこに書かれた文字を見て呆然とする。尻をサドルから前にずらし、フレームを跨いだまま立つ。ハンドルに両肘をついて項垂れた。自分の荒い呼吸と胸を打つ心臓の音が喧しい。


 首を垂れたままでいると、ポケットに突っ込んでいたスマホが震えたのに気付いた。

そろそろお休みでしょ? 年末年始はいつ帰ってくるの?

 母からだった。

 自転車とゆっくりと倒し、自分もその隣に倒れ込む。
 力が入らない。大きく息を吐く。内側から強い圧力をかけていた空気も抜けていくようだった。
 仰向けに大の字になり、落ち着いていく心音に耳を澄ませる。もう一度スマホを確認すると、充電が心許無かった。


「おぉい、にいちゃん?」
「うわぁ!」

突然の声に、思わず飛び起きる。そこには着膨れた年寄りがいた。俺の大声に驚いたらしく、目を丸くしている。

「なんだ、良かった。こんな所でどうしたんだ」
「あ、いやぁ……」

 おじいさんの後ろには軽トラが停まっている。そのすぐ傍に置かれたものを見ると、どうやら釣りをしに来たらしい。
 「ヤケクソで自転車を漕いで来ました。そして、疲れて倒れ込んでいました」と言うのも憚られ、しかし、他の言い訳も思い付かず愛想笑いで誤魔化す。

「にいちゃん随分と薄着だなぁ。なんか訳アリか? ウチ来るか?」
「え? いやいや、いや」

俺が、首どころか両手も降って断るのも聞かず、おじいさんは出したばかりであろう自分の荷物を積みなおし始める。

「いえ、あの、俺帰るんで! 大丈夫です!」
「いいからいいから」

何が大丈夫なのか、何がいいのか。おじいさんは俺の自転車をひょいと持ち上げ、荷台に乗せた。

「ほら、助手席乗んな。まだエンジン冷えてねえから、すぐ暖房付くぞ」

そう言われ、自分の手が悴んでいることに気付いた。おじいさんは立ち尽くした俺の手を引き、強引に助手席へと押し込んだ。おじいさんが言った通り、顔に暖かい風が当たる。

「ウチすぐそこだから。ちょっとあったまってけ」




 おじいさんの家は本当にすぐそこだった。「かあちゃんまだ寝てるから、静かにな」と言ったおじいさんはストーブを付け、俺をその前に座らせた。

「ほら、これ飲め」

大きな湯呑はもくもくと白い湯気を上げていた。悴んだ手で包み込むと痛い程の熱が伝わってくる。火傷しないよう、両手の袖を伸ばし、手の平と湯呑の間に挟んだ。隣に座ったおじいさんの手にも同じ色の湯呑が握られていた。

「おめぇよう、あんなところに寝っ転がってんじゃねえ。死体かと思ったぜ」
「……すいません」

返す言葉も無い。釣りに川へと向かったら、倒れ込んでいる成人男性がいたのだ。さぞ恐ろしい思いをしただろうな。

「何があったかは知らねえし聞かねえ。でも、まずは飯を食え」

おじいさんは横に置いてあったカバンから包みを取り出し、中身をひとつ俺に寄越した。

「俺のかあちゃんのおにぎりだ」

もうひとつ取り出したおじいさんはそれにかぶりつく。豪快にもっしゃもっしゃと食べては飲み込み、熱いお茶を啜った。
 それを見て、俺も渡されたおにぎりを齧る。ラップに包まれたそれは冷たくて、少ししょっぱかった。また齧って、ゆっくりと咀嚼する。それは少しずつ、しかし確実に胃を満たしていく。
 目の奥が熱い。喉の震えが押さえられない。おじいさんはその間、二つ目のおにぎりを頬張っていた。




 その後、軽トラで送ってくれるというおじいさんを断り、玄関を出た。そこまで世話になるわけにもいかない。既に甚大な迷惑をかけているが、それについては後日必ずお詫びをしよう。
 今、現金を持っていたら良かったのだが、俺のポケットには今にも沈黙しそうなスマホしかない。キャッシュレス決済に頼り切っているので、現金を持ち歩く習慣がなかったのだ。

ほのかに明るくなった空を背におじいさんに頭を下げる。
ご迷惑をおかけいたしました。ありがとうございました。


「おい、タイヤに空気入ってねえぞ。入れてやるから待ってろ」

最後まで迷惑かけっぱなしで申し訳ない。



 

 後日、俺は菓子折りと封筒に入れた現金を持っておじいさんの家を訪ねた。
 堤防を真っ直ぐ行き止まりまで、そこから右に曲がって郵便局を左折。覚えやすい道で助かった。

 連絡先を交換しないままだったので、アポなしでの訪問となってしまったが、おじいさんは俺を快く招き入れてくれ、あの時は寝ていたらしいおばあさんも歓迎してくれた。
 持って行った菓子折りはその場で開けて俺にも振舞ってくれ、封筒は押し問答の末に結局俺の元に戻ってきてしまった。

「おめえは俺の孫と歳が近いんだ。だからほっとけなかっただけだよ」

封筒を俺のカバンに押し込んだおじいさんはそう言って、俺が持ってきたマドレーヌを頬張った。

「これ、美味しいわねぇ。あなたもお好きなの? 私もね、美味しいお菓子を知ってるのよ。今度来るときに用意しておくからね」

微笑むおばあちゃんの言葉がじんわりと広がり、指先が痺れる。

「かあちゃんは一度言ったら聞かねえんだ。また来い」

 

 


 年末は実家に帰って、母が作った雑煮を食べた。俺の好物であるエノキが山ほど入っていた。

 明日からは仕事が始まる。連休明けの仕事始めはやっぱり憂鬱だ。
 この短い休みで恋人ができたわけじゃないし、友達も相変わらずいない。仕事も後輩のアイツの方が上手くやる。
年末から、変わったことなんて何も無い。俺はコミュ障だし、仕事は遅い。


 それでもいいのだ。これが今の俺で、そんな俺でも居場所はある。

 そして、夜中に飛び出したくなる衝動に襲われれば、またアイツに跨ればいい。

 “どこにでも”は行けなくても、きっとどこかには辿り着けるから。




小牧幸助さまの企画 #シロクマ文芸部 の「冬の夜」に参加させていただきました。
よろしくお願いいたします。




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冬野
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