かすみん部長の「ワンダーランド」
はじめに
初めまして。note初投稿のフラここ(@Hot_HeartLove)と申します。
ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会。その完結編がいよいよ始まりますが、彼女たちがそうやって前に進んで行っている中で自分も何かをしたい。この「大好き」を何か形にして届けたいと思っていたところ、わらみん(@WaraminLiver123)さんから「#これが私のトキメキ」というタグ企画をやるのでどうですか?とお声がけいただき、noteを書かせていただきました。
僕に書けることは何かと考えたところ、やっぱり推しである「中須かすみ」ちゃんについて書くべきかなと思い、以前からちゃんと書きたいとは思いつつもTwitterでは書き切れなかった「かすみん部長と同好会という"居場所"の話」を書かせていただきました。
アニガサキが描くかすみんの「ワンダーランド」とは一体何のことなのか。そしてそれがみんなにとってどういう場所なのか。主にそんなことを書かせてもらっています。
「ワンダーランド」のアップデート
最初の「ワンダーランド」とその危機
まず最初に書いておきたいのは、アニガサキ作中においてかすみの描く「ワンダーランド」像は最初から現在の様相を成していたわけではないということです。
かすみの主役回である1期2話ではその原初のワンダーランド像の開示と共に、早くもそれが存亡の危機に瀕する様子が描かれ、そして最後にはそのアップデートまでが描かれました。
大好きなスクールアイドルを通して「誰もが自分の大好きを叫べる世界を作りたい」という野望を抱く旧同好会部長の優木せつ菜。ですが、周囲にもその「熱さ」を求めるスタイルに対し、かすみは「でもこんなのかわいくないです!」と反対の姿勢を見せます。
せつ菜の名誉と、本作のテーマを根本から見失わないためにも改めて大前提に触れておきますが、虹ヶ咲はラブライブ!シリーズとしては3作目であり、コンテンツという意味でも作中世界における価値観という意味でも前2作の偉大な先駆者たちが歩んだ「グループで一色となってラブライブ!を目指す」という足跡がスクールアイドル界の王道、或いは常識となりつつあった中でのお話となります。
ですので、せつ菜にとってはスクールアイドルをやるからにはみんなをラブライブ!に導くことが当然の使命となりますし、そのためにはみんなにも自身が貫いて来た「熱量を以ってファンに大好きを届ける」というやり方(せつ菜の色)に染まってもらう必要があったわけです。これはせつ菜個人の問題というより、元々この時点でのスクールアイドルのパラダイムにニジガクが適さなかったという更に根深い問題だと言えます。
いずれにしてもこの衝突がきっかけとなり旧同好会は活動休止、優木せつ菜の引退、そして廃部という流れを辿ります。
しかし、かすみはここで諦めません。自ら同好会を再興させるため立ち上がります。この時に掲げていた新生同好会のビジョンこそが「かわいい溢れるかすみん☆ワンダーランド」。つまりは彼女が本来やりたかったスクールアイドルの形です。敢えて意地悪な言い方をしますが、せつ菜がいなくなったことでかすみは自分の野望を誰にも邪魔されなくなったとも言えます。
「かわいい」の押し付け
ですがせつ菜がいなくなったからと言ってかすみの野望実現はそう簡単にはいきません。かすみは歩夢を相手に新たな壁にぶつかることとなります。
1話で「かわいいもの」に興味を示す様子が見られたように、歩夢の抱くスクールアイドル像は完全にバラバラだった旧同好会のメンバーと比較するとかすみに近いと言えます。そういう意味ではかすみが作りたい同好会(かわいい溢れるワンダーランド)にとって歩夢は正に理想の新入部員だったのかも知れません。
けれど、「かわいい」という理想こそ同じでもその中身までは同じとは限りません。かすみにはかすみが理想とする「かわいい」がありますが、歩夢はそれが中々理解出来ず「かわいいって何…?」と混乱してしまいます。
そんな歩夢にかすみは思わず「そんなんじゃファンのみんなにかわいいは届きませんよ」と口にしますが、その直後彼女はその言葉がかつて自分に投げられたものと同じであることに気付きます。
僕はアニメから虹ヶ咲を知ったのでこの時が丁度初めて中須かすみという人間に触れた機会でしたが、この瞬間「あれ?この子、実はめちゃめちゃ凄い子なんじゃ…?」と衝撃が走ったのを覚えています。というか虹ヶ咲自体をまだよく知らなかったのでここで一気に襟を正しての視聴を決意しました。同じような人は少なからずいるのではないでしょうか。
この時かすみは自分が歩夢に自身の抱く「かわいい」を押し付けていたことに自力で気付いたのです。
僕が思うに、彼女が自分の過ちにすぐに気付くことが出来たのはそれが「かわいくない行為」だったからではないでしょうか。
「かわいいを押し付ける」という行為そのものがかわいくない行為であり、歩夢にそれをしてしまった自分は(それこそせつ菜に牙を剥いてまで)護りたかった筈の「かわいい」を自ら傷つけていた。誰よりも「かわいい」に真剣な彼女だからこそ、その自己矛盾を感じ取ったのかも知れません。
では何故かわいくないのか。それはその行為が「相手の大切なものを奪う行為」だから。少なくともかすみにとってはせつ菜がしたことはそういうことだったのだと思います。言い方を変えれば、奪われる側を経験しているかすみだからこそ自分が歩夢にしていることが如何にかわいくないかを瞬時に理解出来たのかもしれません。
後に彼女は侑に対して「やりたいことを押し付けるのは嫌なんです」とも語っており、善悪以前にその行為が彼女の矜恃に反していることが窺えます。
折角同好会の再興を掲げたのに自身の理想とする同好会を自ら遠ざけてしまったことに苦悩するかすみ。そんなかすみに新たな考え方を提示してくれたのは彼女が勧誘した侑と歩夢でした。
新しい「ワンダーランド」
やりたいことを奪われる側と押し付ける側。その両方を経験しているかすみは、自分と同じようにみんなにもそれぞれに譲れない大切なものがあることや、それでもラブライブ!を目指すならみんなが一色になるために誰かのそれを犠牲にする必要が出てしまうことの難しさを侑に零します。自らが部長になってみて初めて見えたそのジレンマはきっと、あの時のせつ菜が見ていた景色そのものなのでしょう。
対する侑はあまり心配していない様子でしたが、その理由は遅れてやって来た歩夢が教えてくれます。
リベンジとなる歩夢の自己紹介はかすみのように自信満々でカメラ映えを意識したような大振りな仕草やあざといキャラ付けといったものは殆どなく、仕草も自己アピールも控えめなものでした。それはかすみの思い描いていた「かわいい」とは確かに違う。けれど、そこには上原歩夢の「かわいい」がちゃんとありました。
そんな歩夢にOKを出すかすみに対し、侑は「多分やりたいことが違っても大丈夫だよ」「自分なりの一番をそれぞれ叶えるやり方はきっとある」と告げます。今正にかすみが自分とは違う歩夢を認めたように、異なる答え同士が共存出来る道はちゃんとあるのだと。
かすみが目指す理想のワンダーランドは「かわいいが溢れる世界」。けれど、やりたいことを人に押し付けるような場所は「かわいくない」。……ではもしも、「自分のやりたいことも、みんなのやりたいことも叶う場所」が作れるとしたらどうだろう。そっちの方が楽しいし、絶対に「かわいい」に決まってる。
ここで遂に中須かすみの「ワンダーランド」が新たな進化を遂げます。
他の全てを押し退けてかわいいだけが叶う世界よりも、かわいいもかっこいいも…みんなの大切なもの全部が叶う世界の方がもっとずっとかわいい。
これが2話を通してアップデートされた中須かすみのワンダーランド像であり、即ちかすみん部長がこれから目指す新たな「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」という居場所の形となります。そして、これは彼女だけに留まらずニジガクという物語全体を包み込む重要なテーマとなっていきます。
中須かすみと優木せつ菜
優木せつ菜の葛藤
さて、かすみがワンダーランドをアップデートしていた裏で苦しみ続けていたのがせつ菜です。
せつ菜とかすみの衝突をきっかけに活動休止となっていた同好会ですが、それがまさかせつ菜の引退、更には廃部にまで発展していたことはかすみは愚か他のメンバーすら知らなかったところから見ても生徒会長でもあるせつ菜の独断によるものでしょう。
ですが「続けたいなら皆さんだけで続けて下さい」「新たに同好会を立ち上げるのは問題ありません」と告げているように、あくまで彼女の目的は同好会そのものを葬ることではなく「同好会から"優木せつ菜"を排除すること」だったことが窺えます。その理由をもう少し深堀りして行きます。
2話ではせつ菜とかすみの衝突がかすみにとってどんな意味を持つものであったのかを描いていましたが、3話ではせつ菜側のそれが明らかとなります。
せつ菜はアニメや漫画、ゲーム等サブカルチャーな趣味をたくさん持っていますが、教育熱心な家庭なこともありそうした自身の「大好き」を堂々と打ち明けることが出来ずにいました。そんな彼女だからこそ、スクールアイドルという自身の大好きなことで「誰もが自分の大好きを叫べる世界」を実現することが願いでした。
しかし、あの日かすみがせつ菜に向けた敵意はつまるところ「私の大好きを奪わないで下さい!」というものでした。みんなをラブライブ!に導く為とはいえ、自分はかすみに彼女が大切にしている「かわいい」を手放すよう迫っていたということ。言い換えるとそれは「自分の大好きがかすみの大好きを傷付けた」ということを意味します。もっと言えば、あの日実際に抗いの姿勢を見せたのがかすみだったというだけで、みんなのやりたいことがバラバラな以上しずくや彼方、エマに対しても同じことをしていたことになる。
せつ菜にとって、これは自身の願い(誰もが自分の大好きを叫べる世界)を自ら裏切る行為だったのだと思います。この時点で彼女の中で"優木せつ菜"はスクールアイドルである資格を失ってしまった。だからそんなスクールアイドル"優木せつ菜"を封印すると同時に、同好会を「"優木せつ菜"のいない場所」へとリセットしようとした。そうすることで、自分の大好きさえ犠牲にすれば今度はみんなの大好きは護れるから。
違うけれど同じ2人
ここであることに気付きます。
かすみは「かわいい溢れる世界」を目指した結果自分の「かわいい」を歩夢に押し付けてしまい、逆に自身の願いを裏切る「かわいくない世界」を生んでしまった。
対するせつ菜もまた、「誰もが大好きを叫べる世界」を目指した結果自分の「大好き」をかすみに押し付けてしまい、逆に自身の願いを裏切る「自分の大好きが誰かの大好きを傷付ける世界」を生んでしまった。
同じなんですよね。
勿論2話でかすみが「同じことしてる」と言っているので行為が同じことは明白なのですが、それだけでなく「自分の行為が自分の願いを裏切った」という葛藤の本質まで同じなんです。
そして、同じということは相手の葛藤が理解出来るということでもあります。
かすみは自分がせつ菜と同じことをしてしまったことを反省していましたが、その経験があったからこそ「自分に譲れないものがあるように、相手にも譲れないものがあること」や、「自分の譲れないものを護りながら誰かのそれも護ることの難しさ」といったこれまでせつ菜が部長として一人で抱えていたものを知ることが出来たと言えます。
これは正にそんな彼女だからこそ口に出来た言葉なのだと思います。
かすみとせつ菜は全然違う。でも違うからこそ「違うということに苦しんだ」のは同じ。だから気持ちが分かる。せつ菜先輩がみんなの大好きを護るために自分一人犠牲になろうとしていることが分かる。
そして、かすみはせつ菜ではないからこそ同じ問題に対してせつ菜とは違う答えが出せる。誰かを犠牲にするのではなく、違う者同士が一緒に居られる在り方を探すという答えを。
ニジガクの選択
では違う者同士が一緒に居られる在り方とは一体何なのか。それを決定的にするのがかの有名な「だったらラブライブ!になんて出なくていい!」のシーンです。このシーンはかすみんが殆ど出て来ませんが、この後の話においても重要なシーンですので触れておきます。
先程そもそもせつ菜がぶつかってしまった問題はせつ菜個人の問題というよりもスクールアイドルを取り巻くパラダイムの問題だと言いましたが、3話は正にニジガクがそのパラダイムに挑むお話です。
ニジガクの時代、作中世界においてラブライブ!は最早スクールアイドル版甲子園のような存在であり、「スクールアイドル活動をする=ラブライブ!を目指す」という不文律にまで至っています。そしてそれは同時にあの偉大な先駆者たちがそうであったように、メンバーが一つの色に纏まりグループとして高みを目指すということでもありました。
けれど、そんな中ニジガクはみんなのやりたいことがバラバラだった。スクールアイドルをやる以上、みんなが一つの色に纏まらなければならないのに、その為には誰かのやりたいことを諦める必要がある。でもそれはせつ菜の望んだスクールアイドルの姿じゃない。じゃあどうすればいいのか。ここで重要なのは「そもそも彼女たちがスクールアイドルをやる目的はラブライブ!を目指すことなのか」だと思います。
スクールアイドルをやるからにはグループとして一つに纏まる必要がある。それは何故か。そうしないとラブライブ!には出られないから。
ではラブライブ!に出なければならない理由は何か。それがスクールアイドルだったら誰もが目指す場所だから。
しかし、これらの答えは「"彼女たちが"スクールアイドルをやる理由」にはなり得ません。彼女たちはラブライブ!で優勝するためにスクールアイドルになった訳ではないのだから。何せそのやりたい理由がバラバラだったからこそ纏まれなかったのですから。
ニジガクは何もラブライブ!に出ることを否定する物語ではありません。しかし、やりたいことを叶えるためにスクールアイドルになった子たちがラブライブ!を目指すという不文律のためにそのやりたいことを捨ててしまっては本末転倒です。だからこその「だったら、ラブライブ!になんて出なくていい!」という言葉なのです。
ラブライブ!に出なくたって、せつ菜の「大好き」はあの日のCHASE!を通して侑に確かに届いていた。せつ菜の「大好き」がこんなにも侑を「大好き」にさせた。それは紛れもなくせつ菜が叶えたかった世界の姿だった。やりたいことがそれぞれにあるニジガクにとってラブライブ!を目指すことはあくまで絶対的な目的ではなく、それぞれの自己実現を叶えるという本来の目的を果たすための手段です。そして、手段ならば一つとは限らない。もしもその手段が本来の目的を妨げてしまうのなら違う方法を探せばいい。
確かにこのシーンはラブライブ!というシリーズにおいて本作が"ニジガク"という独自のものであることを確固たるものにしたシーンですが、僕はそれは「ラブライブ!に出ない」ということ自体ではなく、それを「消極的選択としてではなく、自己実現を叶えるための手段として進んで選んだ」というところにあると思っています。先駆者たちの足跡から逃げるわけでもない。しかし先駆者たちの歩みを否定するわけでもない。ただ彼女たちには彼女たちの正解があったように、ニジガクにはニジガクの正解がある。これはそういう物語なのだと。
そして、それを「あなたにはあなたの、私には私の正解がある」といった風に自分たち一人一人の話に当てはめたのが「ソロアイドル」という新たな解答です。
最大の敵は最高の理解者
ラブライブ!には出ず、それぞれのやりたいことを叶えると決めた自分たちに必要な選択。旧同好会のメンバーはそれが「ソロアイドル」という道だと考え始めていました。けれど当然それもまた簡単なことではない。隣を見れば同じ道を歩む仲間がいることの心強さはスクールアイドルにとってこの上なく大きいのだ。せつ菜はみんなの中にもソロアイドルという選択があることを察した上でそれをかすみに相談しています。
この時せつ菜がかすみに相談をしたのは勿論彼女が部長だからというのも間違いではないかも知れませんが、僕はかつての衝突を通して中須かすみという人間が自身の「大好き」を決して譲らない人であることを誰よりも知っているせつ菜だからこそ、「それぞれのやりたいことを叶えたい」という願いを共有できる相手として信頼していたからなんじゃないかと思います。
そういう意味では、せつ菜はかすみが目指す「みんなの大切なものが全部叶うワンダーランド」の最高の理解者と言えそうです。あの日の衝突はお互いを傷付けてしまったけれど、あの日の衝突があったから見つけられたものが確かにあるんです。
ここからも分かる通り、かすみが掲げる新たな「ワンダーランド」は既にかすみ個人の話には収まらず、同好会そのものの在り方を問うものへと成長しています。ニジガクは多様性と自己実現の物語ですが、部長である彼女の自己実現はみんなの自己実現なくしては叶わないのです。だって、誰か一人でもそれを諦めなければならないような世界は「かわいくない」のだから。
僕はこの辺りがアニメが敢えてせつ菜でも侑でもなくかすみを部長にした要因として大きいと思っています。同好会のみんながこの場所で自分らしく在ることを叶えて行くこの物語は、言い換えるとそれ自体が「中須かすみが本物の部長になっていく物語」でもあるのだと思います。
ここまではアニメにおける中須かすみの目指すワンダーランド像の確立と、それが同好会そのものの在り方にも繋がっているんだという前提を話しましたが、ここからは彼女が具体的にそれを実現していくまでの歩みにスポットを当てていきます。
「あなたはあなたでいいんだよ」の物語
スクールアイドルの正解
1期4話ではかすみん部長のスクールアイドル害概論が開かれましたが、このシーンは正にニジガクの本質に迫るシーンと言えます。
「スクールアイドルには何が必要なのか」という質問に各々の答えを返すしずくと璃奈、更には分からないと答える愛でしたが、かすみ曰くその全てが正解。
4話にしてこの発言が出て来るところが本当に凄いと言わざるを得ませんが、これこそ正に2話3話の衝突や失敗を通してかすみ自身が学んだ答えなのだと思います。
細かいところですが、ここでの質問はあくまで特定の個人を指さない「スクールアイドルに必要なもの」なので全てが正解となりますが、それは誰が何をやったとしても無条件に正しくなるという意味ではありません。"ファンのみなさんに喜んでもらえることなら"という言葉はその辺りを示しているように思います。
はっきりとした答えがないということは即ち普遍の正解は存在しないということ。誰かの正解が自分にとっても正解になるとは限らないし、自分にとっての正解が誰かの不正解になることだってある。正解の形はアイドルとファンの関係の数だけ存在する。だってその人たちは「あなたというアイドル」のファンなのだから。
このスクールアイドル哲学はアニメ以外においても共通する中須かすみ像であり、スクスタのメイン20章にはかすみのこの考え方が垣間見えるシーンが存在します。
このシーンは同好会のライブ中に観客の多くが他のライブの方に流れて行ってしまうというシーンですが、かすみ自身が口にしている通り、歌やダンスといったパフォーマンスの普遍的な技量を比べるならばこの時のかすみは間違いなく相手に劣っていたのだと思います。それでも彼女は「みんなが応援してくれる限り、かすみん負けてないんです!」とライブを続けました。その「みんな」の数が例えどれほど減ろうとも。
一応ですが、中須かすみという子は自身と他者を比較しない子というわけでもなければ、決してファンの数を気にしない子というわけでもありません。過去にはファンクラブの会員数がみんなより少ないことに悩み続けていたこともありました。自分のライブに残ってくれたファンが少ない事実に苦しまなかった筈がありません。
ですが、それでもこの場において確かなことは「例えどれほど少なくても、ここに残った観客は"かすみんのライブ"を見たい人たち」だということです。そして、かすみより歌やダンスの上手いアイドルはいても、ここのみんなが見たいその"かすみんのライブ"が出来るアイドルはこの世にたった一人中須かすみを置いて他には存在しない。かすみの正解は他の誰にも出せない。だからこの「中須かすみのライブステージ(かすみん☆ワンダーランド)」は世界で誰よりもかすみんが一番かわいい場所なのです。ここの「負けてない」という発言は単なる強がりでも鼓舞でもなく、紛れもない彼女自身のそういった信念の表明なのを感じます。
1期4話ではこのはっきりとした正解のない問題が愛を悩ませているように、あれもこれも正解になり得ることは決して簡単な話ではなく、他の誰でもない自分だけの正解を見つけなければならないという難問でもあります。ですがそれは同時に他の誰かにとっての正解によって否定されることのないその人だけの無敵の色でもあり、全員がこの問題の答えを探すことこそが「全ての色が共存できるワンダーランド」を作り上げるためのカギとなります。
天王寺璃奈の武器
みんなと繋がりたいという願いを持つも、みんなと同じように泣いたり怒ったり笑ったりを表情に出すことが出来ない天王寺璃奈。1期6話は彼女がみんなと繋がる為にそんな自分を克服しようと奮闘するお話ですが、ご存じの通りこの回で彼女が最後に辿り着いた解答は「自分を克服する」と言うものではありませんでした。
誰の目にも分かるくらい一生懸命に努力を重ねていたにも拘わらず表情を作ることが出来ず塞ぎ込んでしまった璃奈。そんな璃奈を心配して自宅まで駆け付けた同好会のみんなに彼女は「私はみんなと同じになれない。みんなが出来ることが私にはできない。みんなと違う私はみんなと繋がれない」とその心の内を吐き出します。
そんな彼女にみんなが返したのは「自分たちが知ってる"天王寺璃奈"の魅力」。頑張り屋さんなところ、諦めないところ、機械に強いところ、動物にも優しいところ…みんな口々に自分たちが知っている璃奈の魅力を伝えて行きました。みんなと同じになれないと悩んでいた璃奈に対してみんなと同じところを教えるのでもなければ、自分を変えるための応援をするわけでもなく、「あなたが他の誰でもない"天王寺璃奈"だから好きな理由」を挙げて行ったのです。
この時にかすみが言ったのが次の言葉。
ダメなところをなくそうとするのではなく、それを自分の武器に変える。自分にとって欠点と感じる部分だって、自分を作り上げる一部なんだと認めてそれを魅力に出来る方法を探す。
実はこの台詞こそがニジガクが多様性と自己実現を描く上で何故「スクールアイドル」にスポットを当てたのかの答えにもなっていると思っています。ぶっちゃけラブライブ!なのでスクールアイドルを描くのは必然と言われればその通りなのですが、先ほどの手段と目的の話で考えるとニジガクにとってスクールアイドルは自己実現の為の「手段」です。この回の璃奈で言えば、彼女の一番の目的は「みんなと繋がること」。そのために自分を変えようとし、更にそのための手段として歌でたくさんの人と繋がれるスクールアイドルを選んだということが分かります。そして、先ほど述べたように手段は一つじゃないので当然彼女にはスクールアイドル以外の選択肢だってあるのです。
では何故スクールアイドルなのかと言えば、アイドルは「人と違うことを、それが例え欠点に映るものですら"個性"という武器に変えられる」から。高校の部活動という側面を持つスクールアイドル。当然彼女たちは高校生で、教室という「同じであることを求められ易いコミュニティ」にも属しています。その環境下ではみんなに出来ることが出来ないことは欠点として映ってしまいがちですが、アイドルはそれが一転して強力な武器になる。だからこの場所では「あなたらしさ」を殺す必要なんてない。人と違ってたって良い。
ㅤ何度も多様性と自己実現なんて堅苦しい表現をして来ましたが、要するにこれは「あなたはあなたでいいんだよ」という物語であり、同好会はそういう場所なのです。
先ほどのかすみの台詞に「出来ないことは出来ることでカバーすればいい」と続けた愛は、この時璃奈が閉じこもっていた段ボールを取り上げることなくそのまま抱き締めました。これは表情の見えない璃奈をそれごと肯定する行為であり、同時に表情が見えなくたって繋がれたという璃奈の自己実現が叶えられた瞬間でもありました。そうして生まれたのが「素顔を隠すことで表情を見せる」という世界でたった一人のアイデンティティを象徴するあの璃奈ちゃんボードです。
本当の"桜坂しずく"
1期8話では演劇部でもある桜坂しずくが藤黄との合同演劇祭で主演の座を獲得。しかし、そこから一転してその役を降ろされてしまうことに。その理由は今回の舞台に求められるのが「役者自身の感情の発露」だったから。演劇部の部長はスクールアイドルでもあるしずくにはその見込みがあると考えていたが、実際のしずくの演技は「役になり切る」というものだった。それもそのはずで、スクールアイドルとしての彼女のスタイルは「自分を表現すること」ではなく「あなたの理想のヒロインを演じる」というものだったのです。
そんな彼女ですから、そういった悩みを抱えていた時でさえみんなの前ではその素振りを見せようとはしませんでした。にも拘らず、彼女のそんな異変に気付いたのがかすみでした。事情を知ったかすみは璃奈と共にしずくを励まそうと街に連れ出すも、事情を知られたと分かったしずくは二人の前から逃げるように去ってしまう。
そんなしずくを見てこれまで自分の知らなかったしず子の頑固な側面にぼやくかすみに対し、「きっと今のしずくちゃんもしずくちゃんだよ」と返したのは璃奈でした。自らも自分の特別さを疎み、それを消し去ろうとした璃奈にとってしずくの悩みは他人事ではありませんでした。けれど、自分はそれでも「私は私でいいんだ」と知ることが出来た。そして、あの時みんなと違う部分を消したりなんかせずとも自分らしさとして誇れる武器に変えられると教えてくれたのは他でもないかすみだった。しずくの苦悩を理解し、かすみがそれを照らせる存在であることを誰よりも知る璃奈だからこそ、この時かすみの背中を押せたのだと思います。
しずくが素顔を隠すようになったのは、小さい頃から人と違うものが好きだった自分が周囲から変な子と思われてしまうことを恐れたため。みんなと同じ普通の女の子を演じている間は誰にも嫌われる心配なんてなく、楽になれたから。彼女もまた、璃奈と同じく「人と違うこと」に悩んでいたのでした。
そう打ち明ける彼女に、かすみは「な~に…甘っちょろいこと言ってんだー!」と一喝すると、「かすみんだってこんなにかわいいのに褒めてくれない人もいる」と突然自分の話を始めたかと思えば今度は「しず子はどうなの!?かわいい?かわいくない?」と詰め寄ります。しずくが気圧されながらも「かわいいんじゃないかな…」と伝えると、満足そうに喜びながらこう続けました。
今更ですが僕はしずかすのオタクでもあり、僕をこうさせた元凶こそが正にこの1期8話、及びこの告白シーンなのですが、初見時の正直な感想を言えば"この告白を聴く直前までは"かすみん結構無茶苦茶言ってんなぁ…と思ってました。というのも、しずくの悩みはしずくのものですから、いきなり「甘っちょろい」とか「かすみんだって~」といった「自分は嫌われることを恐れず頑張ってるんだからしず子もやれるでしょ」みたいな話をされたって困るじゃん…と思ってしまったんですよね。しかも急に自分がかわいいかどうかなんて関係ない話までし始めるし。
けれど、というかむしろだからこそ、後に続くこの告白の言葉を聴いて彼女の真意が全く違ったことを知り、(直前までの己の浅はかさをめちゃくちゃ恥じつつ)中須かすみという人間の魅力に一気に引きずり込まれました。
このシーンでかすみがしずくに一番伝えたかったことは何もそんな自己の精神論の押し付けとかではなく、「大丈夫。"桜坂しずく"のことを好きな人はちゃんとここにいるんだよ」というただただシンプルで、そして真っ直ぐな"肯定"なんだと思います。だから彼女はまず先にしずくに自分をかわいいと思うかを訊ねたのです。世の中にはかすみんの"かすみんらしさ"を好いてくれない人だってまだまだたくさんいるけれど、それでもしず子はそんな"かすみん"のことを「かわいい」って言ってくれた。だから「私は私でいいんだ」って思える。それと同じ勇気をしず子にもあげるねと。
かすみが曝け出すように言ったしずくの側面はどれも一見欠点のようなものであり、実際に本人からも「それ褒めてない…」とツッコまれるのですが、それはつまりかすみはしずくの被った綺麗な仮面だけではなく、その内側に彼女が必死に隠そうとしていた素顔まで含めて「大好き」と口にしているわけです。
ここでもう一つ細かい話をすると、1期8話は恐らく「仮面か素顔か」という二元論を描いた話ではありません。かすみはしずくが隠そうとしていた素顔を肯定こそしましたが、それが即ちこれまで被っていた仮面の存在を偽物だと否定したというわけではないのです。何故なら仮面(ペルソナ)だって桜坂しずくを形作る要素であり、「嫌われたくなくて仮面を被ってしまう」という臆病さすらも紛れもなく中須かすみが「大好き」だという"桜坂しずく"の一部なのだから。
この後再度主演を勝ち取ったしずくが演じた『荒野の雨』では白いしずく(=綺麗な仮面)の前に黒いしずく(=仮面に覆われた素顔)が現れますが、2人はどちらが本物の"桜坂しずく"かを賭けて争う訳ではなく、互いの存在を受け入れて白と黒、そして2色が混じった灰のドレスを纏いSolitude Rainを披露しました。これこそが最後に彼女が告げた「本当の"私"」の姿なのでしょう。
もしかしたら本人は無意識かもしれませんが、かすみが「しず子」ではなく「"桜坂しずく(Everything about you, Shizuku Osaka)"」という言葉を選んだのはきっとそういう意味なのだと思います。しずくの仮面だけでも素顔だけでもなく、それら全部を含めて「あなたはあなたでいいんだよ」と包み込んだのです。
鐘嵐珠と「特別」の呪い
話は一気に進んで2期では1期でみんなが叶えたSIFをきっかけに虹ヶ咲にやって来た鐘嵐珠が登場します。ですが彼女は同好会には加わらず、一人でやっていくことを宣言。曰く、彼女は自身の最高のパフォーマンスでファンを満たし、自分自身を証明するためにスクールアイドルになった。そのためにはランジュがランジュらしく在ることを邪魔されない一人での活動が正しいのだと。
実際に1話で彼女が披露したEutopiaに見られるランジュとファンの関係は、絶対者であるランジュがファンに対して「与えて満たす」というトップダウンの関係。ある意味最初から自己完結しているこのスタイルに他者が干渉するのはノイズでしかないのかも知れない。
……けれど、本当にそうでしょうか?
確かに一見何者にも揺るがされることのない孤高の女王の気高さと絶対性を歌ったようなこの曲には、その一方でどこかその「孤独」を受け入れようとする諦観、或いはそれに気付いて欲しいという叫びのような葛藤も垣間見える気がします。QU4RTZのみんなはそれを感じ取ったのかも知れません。
と、それ自体はランジュ自身の気持ちの話なので正直こちらの憶測の域を出ませんが、それでも一つだけこの時のランジュの主張でそんなことないよと断言出来ることもある。それは「同好会では自分が自分らしく自由に在ることが出来ない」という点。自分たち自身の経験から同好会はそんな場所じゃないと伝えるエマ、璃奈、彼方と、ならそれを証明して見せろというランジュでしたが、この間ずっと置いてけぼりだったのがかすみん部長…。
ですが、これは誰よりかすみにこそ重要なシーンでもあるのです。何せこの時エマたちが主張した「それぞれが自分らしく在れる場所」という同好会の姿は正しく1期2話でかすみがアップデートし、目指すと誓ったあの「ワンダーランド」の姿そのものなのだから。このシーンは1期を経て同好会は既に「そういう場所なんだ」とみんなが胸を張って主張できる場所になっていることを感じられるシーンでもあるわけです。
だからさっきまで置いてけぼりだったくせにすぐにこんなことが言えてしまう。だって、これは最初からずっと彼女が…かすみん部長が貫いて来たことだから。
この言葉を聴いた瞬間、さっきまでずっと神妙だったエマちゃんが笑顔になって彼方ちゃんが1期3話の時のように「いい子だね~」って喜ぶ様子が本当に好きです。ランジュにはああ言ったものの、彼女達旧同好会組はその「それぞれが自分らしく在れる場所」が最初から当たり前にここにあったわけではないことを知っている。異なる色同士がそれを護りながら、それでも一緒に居られる場所の実現が実際どれだけ難しかったかを知っている。だけど、それでもこの子がこうやって言うなら大丈夫だって思える存在が彼女たちにとってのかすみん部長なんだなぁと思うと凄く嬉しかったです。
だからこそ、ランジュにもそれを届けなくちゃいけない。ある意味で、鐘嵐珠という存在はかすみん部長のワンダーランド実現の最後の試練でもあったのかも知れません。
QU4RTZのライブを見て彼女たちの言葉が嘘ではなかったことを知るランジュ。けれど自分はその輪には入れないと自ら一線を引いてしまう。その本当の心は9話にて語られる「ランジュがランジュとして接するとみんなランジュから離れていく」というものでした。それは言わば「特別」という呪い。色んなことが出来る…出来てしまうランジュにはそうじゃない人の気持ちがどうしても分からない。分かろうと頑張ってもダメだった。みんな最初は良くても次第に自分とランジュの間にある差を感じて離れてしまう。
だから彼女の歌は「与える歌」だった。特別であるが故に誰とも対等になれないのなら、対等を望むのではなく特別さを以ってファンと繋がろうとした。これはある意味でしずくに通ずる境遇で、尚且つ真逆のアプローチと言えるでしょう。「自分らしさか、それとも人との繋がりか」のトレードオフ。しずくにしてもランジュにしても(もっと言えば他の子も大体そうなんですが)、僕は彼女たちの選択が間違っていたとは思いません。自分に出来るやり方で、何かを諦める代わりに何かを護ろうと頑張っていたのだから。けれど、もっと欲張っていい。自分が自分としてみんなと一緒に居られる場所を願っていい。それが叶えられる場所だからこそ「ワンダーランド」なのだから。さあ、ワンダーランドの完成は目前です!
9話でようやく仲間になったランジュでしたが、僕はランジュが本当の意味で同好会の仲間になれたのは10話だと思っています。そして、それは同時にかすみん部長の「ワンダーランド」が完成した瞬間でもあると思っています。
前回みんなにありのままの自分を受け入れてもらえたランジュでしたが、過去の失敗の経験からどうしても自分からあと一歩が踏み出せない。この回のかすみはそんなランジュに対しそれほど特別なことはしてないように映りますが、それこそがある意味でランジュを救っていたのかも知れません。
10話に込められたランジュ救済のメッセージ。それは「元々この場所には『特別』な人しかいない」というものなんだと思います。「特別」というのは自分にとっての「当たり前」が周囲と乖離していること。だとするなら、「特別」であることが「当たり前」なこの場所では彼女はもう一人ぼっちじゃない。周りがみんな赤色の花を咲かせる中で寂しく咲いていた青い花も、黄色やピンク、白や黒…バラバラの色の中ではもう特別じゃない。それが「虹が咲く」というこの場所の在り方。これまで「あなたはあなたでいいんだよ」を繰り返して作り上げて来たこの虹色の花畑の存在が、もうそれだけでランジュを救っていたのだと思います。
「特別」に焦がれた花
そんな風に虹ヶ咲は「人はみんな違う」という事実を肯定し、ありのまま愛する物語ですから、改めて考えると「特別」って何だ?そもそも「普通」って何だ?ってなって来ますし、ある意味それが多様性と呼ばれるものの正体なのかも知れませんが、ただその上で自分をどちら側と認識するかはまた別の話。そして個人的には中須かすみという子は潜在的には自分を「普通」だと思っている側なんじゃないかなと感じています。
上述した璃奈、しずく、ランジュは特に顕著ではありますが、彼女たち以外にも基本的に本作は「自分だけの色」を最初からある程度自覚している子が殆どだと思います。それが故に「私には似合わない」「適性がない」と自分の在るべき立ち位置を定義していた果林や栞子のような子もいれば、「テイラーじゃない"ボクの歌"を聴いて欲しい」と願ったミアのような子もいる。
そんな中でフォトエッセイや無敵級*ビリーバー等から垣間見えるかすみの根っこは逆に「かすみんだけの色って何なのかな…?」という自問自答の先に「"かわいい"だけは誰にも負けたくない」という願いがあるように思えます。「世界一かわいく在ること」こそが"中須かすみの色"だと信じたい。そして証明したい。言わば、「かわいい」とは「かすみんを"かすみん"たらしめるもの」なんじゃないかと。
そしてこれまた個人的な偏見でしかありませんが、本来彼女のような「普通であるが故に特別を求める子」は璃奈やしずく、ランジュのような「特別であるが故に苦しんだ子」とまあまあ相性が悪そうな気もしています。人と違うことに苦しんでる側の気も知らず自分も特別になりたいだなんてまあ気持ちのいい話ではないよねと。けれど実際は真逆で、ここまで書いて来たように彼女はそんな「特別」に苦しむ子たちを救ってきました。それは、彼女が特別に焦がれる人間であるからこそ、相手の特別さをありのまま肯定できる子だったからなんじゃないかと思っています。
実は上述した3人って「自分が特別であること自体」を疎んでいたかと言うと厳密にはそうではないような気がします。
璃奈にとってみんなと同じように表情を作れないことは彼女の「繋がりたい」という願いの障害となっていましたが、逆に言えばそれさえなければ同じになろうとする必要はありませんでした。
しずくにとって周囲と違う素顔は自身を孤立させる呪いでしたが、それでも彼女の部屋は彼女の大好きなもので溢れており、それ自体を捨てようとはせずに仮面で護ることを選びました。
ランジュに至っては最初から「私を証明する」と言っており、例えみんなと対等にはなれないとしても自分らしく在ることは譲りませんでした。
彼女たちは「特別であること」そのものではなく、それによって「ありのままの自分では誰とも対等に繋がることが出来ない」ことに苦しんでいたのだと思います。
そんな彼女たちに必要だったのは「あなたの『特別』って凄いじゃん!でも私だって『特別』なら負けないからね!」という、特別を受け入れた上で対等に在ろうとしてくれる存在だったのかも知れません。
特別に焦がれる感情を「あの子のように特別になりたい」ではなく「私だけの特別を信じていたい」へと向けられる。そしてまずは自分が相手の「特別」の肯定者となることで自分が持つ自己肯定の精神を相手にも分け与えられる。そんな中須かすみという存在は、正に彼女たちが必要としていた光だったのかなと思います(勿論かすみんだけが彼女たちを救ったわけではないのですが)。
もしかしたらこの場所の「あなたはあなたでいいんだよ」というメッセージはそんな彼女の「特別」への向き合い方から形作られている側面もあるのかも知れません。
かすみん部長の「ワンダーランド」
「部長」は1人ではなれない
とまあこの記事がかすみんの記事なのでかすみんのことばかり書いてますが、何もかすみんだけが「あなたはあなたでいいんだよ」を叶える居場所を作り上げて来たわけではないことは勿論分かってます(エマ→果林とかせつ菜→歩夢とか璃奈→ミアとか本当なら脱線したい気持ちを必死に抑えてます)。
それらを書き出すとキリがないのですが、ただこれだけはやっぱり書いておかなくちゃいけないのが「『部長』は1人ではなれない」ということです。これはかすみんのアイコンの「王様」でも同じです。王様だってその国で一番偉い人でありながら、その存在は民の存在に支えられています。ワンダーランドは王様だけでは決して作れないのです。
最初の方で書いた通り、かすみの目指す「ワンダーランド」はこのアニメが描く「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」という"みんなの居場所"そのものであり、タイトルにもなっているこの場所が完成することそれ自体が「中須かすみの自己実現」となっています。
再三繰り返しているこの「自己実現」という言葉ですが、要は「自分らしく、自分の願いのままに在ることが受け入れられる」ということであり、それが全員で叶えられる場所こそが正にかすみの作りたかった「ワンダーランド」です。だからこそ彼女の夢は彼女一人では叶えられない。この同好会が「みんなの自己実現が叶う場所」になったその瞬間、「中須かすみの自己実現」は叶うのです。
2期10話『かすみん☆ワンダーツアー』は先ほども書きましたが、かすみん部長にとって最後の試練でもあったランジュの自己実現が叶えられ、真の意味でランジュが同好会の仲間になった話だと思っています。それはつまり、同時にこの話こそがかすみん部長の「ワンダーランド」が完成した話でもあるのだと僕は思っています。
悪巧みん全開で野望ノートを準備してる割にただただ真っ当に頑張ってただけのこの愛しい自称部長さんですが、大体そうやって張り切った計画は殆ど失敗するという悲しいジンクスも背負っており……。けれど、本人にとっては失敗だらけのこのツアーは最後には途中まで暗い顔をしていたランジュも含めて"全員"が"自分らしく"笑顔を咲かせていました。それは正にかすみが目指した「世界で一番のワンダーランド」そのものだった。そして、その瞬間からこれまで自称部長だったかすみがみんなから「かすみん部長」と呼ばれたのです。みんながかすみの作った"居場所"を「私たちの居場所」と愛した瞬間、同時にかすみもまたみんなに夢を叶えてもらっていた。みんなが、彼女を「かすみん部長」にしてくれた。
そうして2期最終話の同好会単独ライブで彼女から披露された楽曲が『☆ワンダーランド☆』だったことが本当に嬉しかったです。おめでとう、かすみん部長。
中須かすみは「かわいい」!
最後に、みなさんは部長や王様に一番必要なものって何だと思いますか?
これはあくまで個人的な考えですが、僕は「カリスマ」ではないかと思っています。
で、その「カリスマ」って概念が結局抽象的過ぎてよく分からなかったりするんですが、これまた僕の個人的な考えとしては「人に愛される力」のことだと思っています。更に具体的に言うなら「この人のために何かをしたい」とか「この人の頑張りに報いたい」とか、もっと単純に「この人に笑って欲しい」とか…そういう気持ちを相手に抱かせる力のことなんじゃないかと思います。
それは容姿でも性格でも技能でも、或いは名声や財力でもぶっちゃけ何によるものであっても良いと思うのですが、ただそれら一つだけでは大抵の場合他の人に取って代わり易いものでもあると思うので、そういうあらゆる要素を複合して「この人が"この人"だから好き」と感じさせる力を「カリスマ」と呼ぶのだと思っています。
一応ですが、これは別にかすみにカリスマがあってせつ菜にはなかったという話ではなく、そもそもアイドルって人に愛される存在(しかもアイドル自体はいくらでもいる中から自分を好きになってもらう存在)ですからこの同好会の全員しっかりとカリスマを持っていると思います。なんならせつ菜に関しては2期6話なんて上に書いたことモロ満たしてますからね。
なのでもしも他の誰かが部長だったならそれはそれできっとまた別の問題にぶつかりつつも違った形の素敵な同好会が出来ていたのかななんて思ったりもするわけですが、少なくとも我々が見て来たこの「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」という"みんなの居場所"は中須かすみという部長のカリスマなくしては作れなかった場所なんじゃないかなと思います。
そしてこの「人に愛される力」こと「カリスマ」ですが、全く別の言葉に言い換えられると思うんです。そう、「かわいい(可愛い)」という言葉に。
自分から部長って言っている間は中々部長って呼んでもらえず泣いたり怒ったり、そんなちょっぴり残念なところもみんなを笑顔にする。だけど本当は全員が彼女の頑張りを知っていて、集合写真を撮る時は真ん中にしたいと思う人。
「かわいい」という言葉も奥が深いですから、かすみんにとってこれが理想の「かわいい」なのかは分かりません。
けれど、みんなを愛しみんなに愛されるそんなかすみんをやっぱり僕は世界で一番「かわいい」と思っています。
おわりに
夏休みの宿題の如く(書きたいこと多すぎて)ギリギリまで纏まらない文章と格闘しながら僕も他の方のブログをたくさん拝見させていただきましたが、何というか…みなさんそれぞれに本気で作品と向き合っていて本当に楽しかった半面、僕は僕でこの人たちの熱量に負けたくないなぁみたいな対抗心も燃やされたりしたんですよね。
そんな風にそれぞれが好きなことに本気で向き合って、でもその「好き」でだけは誰にも負けたくないって思える空間って正に虹ヶ咲だと思うんです。あんまりTwitterでオタク語りしてると五月蠅いかな…と正直(これでも)気にしたりもしている僕ですが、こうやって遠慮なく「大好き」を発信出来る機会を与えていただき本当にありがとうございました。
まだ第1章とはいえ「完結編」という文字を見ると今でもまだ心が締め付けられるような気持ちですが、「終わって欲しくない」と思えるくらい大好きな世界と出会えて本当に幸せです。なのでこの気持ちは大切に抱いたまま前に踏み出すみんなの物語を見届けに行こうと思います。