徳川家康さま☘️をたどる#6☘️松平広忠さま2回目の身内との敵対
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#6
⬇️
https://stand.fm/episodes/63a1cf0d83332b0216acaa13
1 コンセプト
徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
こんときはあー思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつ
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
2 前回
前回は、
松平広忠さま(家康さまのお父さま)が
生涯のうち身内と敵対した大きなもの2つのうちの
1回目の身内に煮湯を飲まされた話をしました。
煮湯の元は松平内膳信定さん
当主の松平清康さん(家康さんのお爺さま)が
お亡くなりになった当時
広忠さんが11〜12歳という若年であるのをいいことに
広忠さんを追放してしまった。
その後、広忠さまが岡崎最入城するまで
そして広忠さまのご人格についても言及しました。
前回記事はコレですよ😀
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3 家康さまから三代の生年・没年と関連家系図
まず毎回のように主に参考にしてる一次史料は
純粋な一次史料とは言い切れない🤪
大久保彦左衛門忠教(ただたか)さんの三河物語ですが
広忠さまの話は清康さまより年代が新しくやはり
詳しく記述されています。
じいさん松平清康1511〜1535
おやっさん松平広忠1526〜1549
家康1543〜1616
こんな三代の生年没年だが
大久保彦左衛門さんは1560年〜1639年
そら広忠さんの情報のほうが詳しくなりまんなぁ
そもそも家系図がややこしいので書いておきます。
⚫︎関連家系図説明
信忠ー清康ー広忠ー家康
↓弟 ↓弟
信定 信孝
4 松平蔵人信孝さま、図らずも悪もんその2となる
広忠さま岡崎入城後、数年が経ちました。
2回目の敵対です。
悪もんではないのに敵対してしまったのは
松平蔵人信孝さま
松平蔵人信孝さまの弟さまの康孝さまが早世
→康孝さまの家(土地と家臣)を併合
→松平家分家の後継がなし→その家(土地と家臣)も併合
結果、松平本家の広忠さまより勢力が大きくなる
しかし本家に尽くす気持ちは変わらず。
しかし挨拶に行かなかった
家臣団が不安の芽は摘んでおこうと
家臣団が広忠さまに申し上げ
信孝さま遠征時に信孝さま居城三木城を攻めとった
(1543年・家康さま生誕年)
「前車のくつがえるを後車のいましめとなす」
家臣団の思いを伝えるこのような言葉が三河物語にあり
前車とは前回記事の松平大膳信定さんの
広忠さま追放のお話
「広忠さまには恨みはないが 家臣団を恨みに思う」
とは三河物語にある信孝さまのお言葉。
信孝さまは止むを得ず、織田信秀さんと組んで広忠さまと敵対
広忠さまは今川家に支援を求め
The 雪斎さま登場!広忠さまに与力(この時代の用語で助力のこと)
雪斎さまの記事はこちら❗️
⬇️
信孝さまは、広忠さまとの戦で亡くなる
5 討ち取られた信孝さまの首実検時の広忠さまのお言葉
「生捕りにせんは何故?
日頃蔵、蔵人どの(信孝さま)ひとつとして背くことなし。
この度敵とならんも然るべきこと、
我は恨みに思はず。
先を疑い我より追い払いし。
蔵人どの(信孝さま)より謝罪さまざまにあれども我聞き入れず
蔵人どの(信孝さま)怒り、顔を赤うして心ならずも敵となりけり。
我より無理に敵とす。
内膳(松平信定さま)が敵になりしとはなはだ違ふ」
※ほっしー古語訳
ところどころ間違いあるかも🙇♂️ 一口メモ⬇️
敵、を、てき、ではなくて、かたき、と読むとフンイキ出ます🤪
と涙を流して仰せになる
皆も道理とかぶとの袖を濡らさん
1549年
病死→三河物語
他暗殺→岡崎領主古記、他
他、一揆による殺害
松平次郎三郎広忠
享年23歳このとき駿府の竹千代君御歳6歳
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