徳川家康さま☘️をたどる#88☘️最後の鷹狩😭
初筆 2024年 5月 31日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける: #徳川家康さまをたどる 88
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1 コンセプト
#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
1609年・慶長14年、猪熊事件で内裏は男女間の風紀が大幅に乱れ、 #後陽成天皇 は激怒❗️💦関係者全員に極刑を望むも、容赦を望む周囲は収拾を家康さまに預け、家康さまは処置をゆるくした。結果、家康さまは天子さまの意図を変更したことになった
猪熊事件や三公と親王の対立などモンダイが起きるたびに、後陽成天皇・公卿と家康さまは話し合いを続けた。これが禁中並公家諸法度の元となった。ゆえに禁中並公家諸法度は幕府から天子さま・公家への押し付けではない。
禁中並公家諸法度は、江戸幕府と朝廷が相談の上、天子さま周辺と公家衆の在り方、また朝廷と幕府の関係を確立するための法令で、1615年・慶長20年7月17日、二条城において、元関白・ #二条昭実 さま、大御所家康さま、2代将軍 #徳川秀忠 さまの連署で公布された。
前回はこちら❗️
⬇️
3 家康さま駿府へ帰る・六男松平忠輝さまを勘当💦
大坂の陣の戦後処理が一段落し、また
武家諸法度
禁中並公家諸法度
一国一城令
などが発布されたのち、1615年・元和元年8月
家康さまは京をたち駿府に帰りました。
9月10日には六男: #松平忠輝 さまの驕慢を理由に
勘当しました。
忠輝さまは大坂夏の陣において軍規違反を起こしていて
また家康さま参内時における列席をすっぽかし、
行軍時に、忠輝さまの軍勢を追い越した
秀忠さまの家臣を切り捨てたりしていたのです。
忠輝さまは家康さまご臨終の際に、
スグ近くまで来ているのに面会を許されませんでした。
いったん勘当を決めた息子に、家康さまは立場上、
面会を許せなかったのでしょう。
家康さま、忠輝さまに面会はできないが、
気にはしていたようです。
形見分けとして、
織田信長さま→豊富秀吉さま→徳川家康さまと
渡り歩いた #野風の笛 を母親・茶阿局を通して
頂戴していて、忠輝さまは後生大切に
お持ちになったと言われています。
その後、2代将軍秀忠さまによって
忠輝さまは改易・配流されたしまいました。
しかし忠輝さまはご長寿、
5代将軍 #徳川綱吉 さまの御代の
1683年・天和3年、92歳まで生きられたのです。
きっと平和な世の中を文化人として
ご覧になったことでしょう。
野風の笛は、忠輝さまが配流から死去までの
58年間を過ごした長野県諏訪市の
貞松院に現存しているそうです🥰😭
4 最後の江戸下向・3代将軍確定・関東平野の視察
1615年・元和元年9月に駿府近辺で
鷹狩を行ったのち、同月内に駿府を発ち
江戸に向かいました。
3代将軍が家光さまに確定したのは
このころのことかと考えられます。
秀忠さまが次男 徳川忠長 さまを
可愛がるあまり、内気であった家光さまを
廃嫡させるような雰囲気が幕閣でウワサとなり、
家光さま乳母(めのと)の #春日局 が
駿府まで下向し家康さまに状況を訴えたという
俗説がありますが、これは江戸時代後年に
作られた話とも言われています。
いずれにせよ、3代将軍家光さまの
元服のための上洛・参内を家康さまは
計画していましたが、これは果たせませんでした。
その計画中で家光さまを3代将軍とする、ということは
確定していたと考えられます。
1615年・元和元年10月下旬から11月下旬の間、
家康さまは、武蔵国内を、
戸田→川越→忍(おし)→岩槻→越谷→
下総千葉→上総東金→下総船橋→葛西
と鷹狩にお出かけになりました。
このころの関東平野はまだ現在のような
形にはなっていませんでした。
その際たるものは #利根川 でした。
1592年・天正20年、家康さまが関東へ移封された
ころは日本最大の河川利根川は江戸前つまり
東京湾に流れ込んでいて、
しばしば大氾濫を起こし流域に
多大なる水害が発生していて、
これを治めないことには、
江戸城より東のエリアを穀倉地帯に改善できない
状況だったのです💦
そして始められたのが #利根川東遷事業 でした。
利根川の流れを変更して、今現在のように
銚子に流れるようにしたのです。
その事業はいつまでにどの部分が仕上がったのか、
詳細は伝わっていません。
が、利根川東遷事業は100年以上、
考え方では今も進行中の大事業で、
家康さまご生前、その事業は中途で、
川筋変更は仮の状況だったと考えられます。
家康さま関東平野内で大きな円を描いて、
鷹狩なさったのは、利根川がかつて氾濫していた
エリア現状の視察が目的にあったはずです。
5 駿府に戻る家康さま
1615年・元和元年12月、家康さまは
江戸を発ち、年内に駿府にご到着なさいました。
江戸幕府による武家の儀礼整備一環として、
1616年元和2年の年始の挨拶より、
武家諸法度条文に従い、
江戸城・駿府城に登城する者には
烏帽子・装束(狩衣・大紋・素襖)の着用を
正装とすることが命じられたました。
もちろん従わない大名はいなかったとのこと。
なお、狩衣・大紋・素襖はいずれも上着ですが、
上等さが異なり、それは武家各家で
どれを着るのか徐々に確定していったと
考えられます。
6 最後の鷹狩😭
人はどんなに好きなことであっても
いっしょに居たい人といることであっても、
最後の1回が必ずあります。
家康さまが趣味と実益を兼ねていて
現地に赴けばあんなに楽しそうにしていた
最後の鷹狩は、1616年・元和2年1月21日でした😭
その日は駿河の田中に鷹狩に出かけた家康さまは
夜遅くに痰がつまり、そのまま床に伏しました。
そして回復後の1月25日に駿府にお戻りになりました。
江戸の秀忠さまは、年寄衆の
#土井利勝 さま・ #安藤信重 さまらを
駿府によこすばかりでなく、秀忠さまご自身も
2月2日には駿府に到着、その後2ヶ月ほどを
駿府でお過ごしになりました。
家康さまのご病気は朝廷にも伝わり、
かねてより太政大臣任官をご希望だった家康さまに、
3月21日に後水尾天皇より太政大臣任官の沙汰が
降りました。
武家出身者では、
平清盛さま・足利義満さま・豊臣秀吉さまに次いで
史上4人目の太政大臣でした。
この太政大臣任官により、家康さまは
駿府の相国さま(しょうこく)と
呼ばれるようになりました。
ちなみに相国とは太政大臣の漢名です。
7 2代将軍秀忠さまへ
先は長くないと悟った家康さまは
病床に秀忠さまを呼んでお声がけなさいました。
「このように天下をゆるゆる渡せるのは満足である。
思い残すことはないが、できれば、
義直・頼宣・頼房をよしなに」
と、伝えたのち、
家康さまは秀忠さまに最後の質問をしました。
「もし私が亡くなったらこの世は再び乱れると思うか❓」
秀忠さまは答えます。
「はい、乱れると思います」
家康さまは満足そうに
「それでよい、私が亡くなったら天下は乱れると
考えてかかるがよい」
とお続けになりました。
そして実際に家康さまがお亡くなりになると
大名衆に向かって2代将軍秀忠さまとしての
これからの御代についての声明を述べられます。
「これからはすべての政り事をこの秀忠が
執り行う。これに不満のあるものは、
さっさと国許にお帰りになり、軍を整えて
この秀忠を討つがよかろう」
家康さまご臨終直前に、秀忠さまは
天下は再びみだれるであろう、と思っていると
家康さまに伝えました。
しかしその対策は大名を江戸に取り置き、
国許に返さないのではなくて、
江戸幕府に謀反できるものならしてみろ、と
挑発してみせたのです。
秀忠さまは、家康さまのやり様を横目で見て
将軍の器に確実に磨きをかけていたのです🥰
この逸話はよく言われる通説であって、
ちゃんとした資料が残っているわけではありません。
しかし、これまでの秀忠さま・家康さまの関係性や
家康さまの政治のやり口などに配慮すれば、
家康さま・秀忠さまともに言いそうなことですね
8 ご最期😭
1616年・元和2年4月に入ると
家康さまの病状は悪化していきます。
痰が絡み、発熱し、嘔吐し、
日によっては小康状態となったりもしますが、
食事は摂れたり摂れなかったり、で、
周囲には、もはや今日明日の躰に候、と見えたところ、
4月17日・午前10時にお亡くなりになりました😭😭
御歳、数えで75歳、当時の病状の記録から
胃癌による心不全が死因と推測されています。
9 東照大権現
お亡くなりになった家康さまは
その日のうちに駿府・久能山へ移され、
急拵えの仮殿に、神式にて埋葬されたと
記録にはあります。
この時点では家康さまは「大明神」として
祀られることになっていましたが、
#南光坊天海 さまのお考えを、秀忠さまが採択し、
作法も神号も山王神道て祀ることになりました。
神号は朝廷より数案頂戴し、そのうちの
#東照大権現 となったのです。
家康さまが日光東照宮に祀られるのは
またのちの話です。
10 家康さまのご遺訓
家康さまのご遺訓として有名なものに
人の一生は重き荷を負いて〜というものがあります。
とりあえず全文掲載をします。
人の一生は重き荷を負うて遠き路を行くが如し、
急ぐべからず。
不自由を常とおもへば不足なし。
心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりを敵と思へ。
勝つことばかり知りて負くる事を知らざれば
害其身に至る。
おのれを責めて人をせむるな。
及ざるは過ぎたるに勝れり。
この文章は駿府の久能山東照宮に
家康さま直筆の書として保存・紹介されています。
しかし以下のような説があります。
上記の家康公ご遺訓は、
水戸藩2代目藩主 #徳川光圀 さまのご遺言、
「人のいましめ」を元にして、明治時代に
旧幕臣の #池田松之助 さまが偽造したもので、
旧幕臣の #高橋泥舟 さまが各東照宮に奉納した、と。
実は家康さまの遺言として一時史料に残るものは
以下です。現代語訳で書いておきます。
自分の遺体は久能山に葬れ
江戸の増上寺にて葬儀せよ
三河の大樹寺に位牌を納めよ
一周忌が過ぎてから下野の日光に小堂を建てて分祀せよ
1年半かかって、家康さまの一生をたどってきました。
たとえ史料掲載がなくとも、その時々の気持ちを
推測してきたつもりです。
ここまで「家康さまをたどる」を
やってみてわかることですが、
「全国の各東照宮に奉納されている
家康公のご遺訓、あんな説教くさいことを
家康さまは自らおっしゃることはない」
それは辞世の句を見ればわかることなのかも😭🥰🤚
「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」
2首ある、つまり、予備案を設けるとこが
実に家康さまですねっ❗️❗️🤣🤚
11 新シリーズのお知らせ
少しお休みをいただき
家康さまに関連する新シリーズを
スタートさせます❗️❗️
1つは、家康さまのこの失敗で江戸幕府は崩壊した
もう1つは、家康さまがスタートさせた事業の結末とその後
です。
詳細は追って❗️❗️
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