徳川家康さま☘️をたどる#84☘️大坂夏の陣の戦後処理2
初筆 2024年 5月 3日 / 加筆修正 未
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1 コンセプト
#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
大坂夏の陣本戦翌日、家康さまは京・二条城にお戻りなり、公家諸法度草案やら文化活動の合間に大坂の陣の戦後処理や論功行賞する忙しさっ
#豊臣秀頼 さまの子、国松さまは捕らえられ処刑😭、秀頼さまの娘さまは #千姫 さまの養女として
僧籍入りを条件に助命され、 #天秀尼 と号した。江戸幕府は、豊臣方の浪人衆諸将や侍大将・残党の追跡を徹底、有力武将に止まらず下々の武将まで捕縛。一方で #伊達政宗 さまのように #真田信繁 さまのご子息をかくまい、後に家臣として取り立てる例もあり
家康さま・ #徳川秀忠 さまは徳川軍の馬印が倒れた一件・目付業務不行届・その他軍役違反などの粗相も罰していった。親藩大名では #松平忠輝 さま改易。後の世では、大坂の陣の影響で、 #松平忠直 さまも改易。
前回はこちら❗️
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3 大坂夏の陣の論功行賞
大阪夏の陣後、京・二条城にて家康さまは
大坂夏の陣の論功行賞を行いました。
しかし大坂夏の陣では、関ヶ原の戦のように
日本全国の領地持ち大名が2分して戦ったような
戦ではなく、豊臣方に与した諸将は
ほぼ浪人衆で、大坂夏の陣後、浮いた土地は
豊臣家所領の摂津・河内・和泉の65万石、
それに徳川方で粗相をした諸将の土地を
加えたところで微々てるもの、
手柄を立てた大名に与える土地が
大幅に不足していました。
そんな中でも領地加増を受けた諸将は以下でした。
#伊達秀宗 さま(伊達政宗さま庶子)に伊予宇和島国10万石・現在の愛媛県
#前田利孝 さま(前田利家の5男)に上野国七日市1万石・現在の群馬県富岡市
#織田信雄 さまに大和国宇陀松山5万石・現在の奈良県宇陀市
#蜂須賀至鎮 さまには加増で、淡路国8万石・現在の淡路島
#井伊直孝 さまには彦根(現在の滋賀県彦根市)で、また #藤堂高虎 さまには伊勢(現在の三重県伊勢市)で、それぞれ5万石の加増
#水野勝成 さまには、三河国刈谷3万石(現在の愛知県刈谷市)から大和国郡山6万石(現在の奈良県郡山市)に加増転封
その他、松倉重政さま・佐久間安政さまなども加増転封されました。
列挙した加増・加増転封はどれもが、
家康さままたは秀忠さまが何かしら気を遣っての
処置であるようです。
例えば織田信雄さまは大坂夏の陣の前は
大坂城にお住まいだったため領地を与えた、とか、
前田利孝さまは、かつて秀忠さまのお小姓をお勤めで
外様大名ではあるが、譜代大名扱い、とか、です。
また伊達秀宗さまという庶子であるが長男を分家させ
土地を与えることで、伊達家のお家騒動を未然に防ぎ、
伊達政宗さまに恩を売っておく、とかも
気を遣っての処理と考えてよさそうです。
ちなみにその伊達政宗さまが
大坂夏の陣・本戦でやる気がなかったのは
戦ったところで、加増の可能性も低く、
兵を温存するほうが伊達家にとってコスパがよいと
お考えだったからでしょう🤣💦
4 方広寺鐘銘と豊国社の戦後処理
大坂の陣、つまり徳川軍が大坂に戦を仕掛ける
そもそもの直接的なキッカケとなった
方広寺とその鐘銘は、あくまでタテマエなのですが、
戦のキッカケなのだから、江戸幕府は
処置しなくてはなりません。
方広寺は大坂の陣以後も残されました。
しかし境内に組み込まれていた
三十三間堂ともども、
由緒ある寺院の妙法院預かりとなりました。
つまり妙法院門主が方広寺住職を
兼任することになったのです。
この沙汰は江戸幕府によるものでした。
「国家安康」の文字を刻み、
家康さまを呪詛したとして
大坂の陣の直接的なキッカケを作った方広寺鐘銘は、
江戸時代は方広寺大仏殿の塀の外にありました。
現在の京都国立博物館の噴水のそばとのこと。
これは江戸時代の方広寺境内を描いた絵図から
確認できるようです。
俗説としては、
江戸期は懲罰的措置として、鐘楼を撤去の上、
地面に置かれ鳴らないようにされていた、
とも言われますが、これは間違いらしく、
鐘銘が地面に置かれていたのは明治期の前半のみで、
江戸幕府の処置ではなくて、
明治政府の廃仏毀釈により方広寺寺領の大半が
没収され、そのエリアのあった鐘楼が取り壊され、
鐘銘移設がなかなか進まず、
鐘銘はしばらくは地面に置かれ、
雨ざらしとなっていたというのが真説だそうです。
その後1884年・明治17年、鐘楼が再建され、
今日に至っています。
また秀吉さまを神としてお祀りした
豊国社の処置については、家康さまが
#南光坊天海 さま・ #金地院崇伝 さまに諮問し、
江戸幕府により、社としては廃絶の上、
しかし京の大仏鎮守として
方広寺大仏殿の裏手に遷されました。
これらの方広寺および豊国社の処置も
大坂夏の陣後の徹底した戦後処理の一環で
豊臣家は滅亡したということを
京・大坂の庶民に、目に見えるようにする、
という効果を狙ってのものです。
そしてその処置をするにあたって
家康さまは、ただ、そーせよ、と言うだけではなく、
妙法院に寺領として1千石加増して、
豊臣家滅亡の喧伝も込みで、妙法院を従わせたあたり、
家康さまは人心をコントロールする
絶妙な処置と言わざるを得ません😉🤚
5 大坂城の財宝の引き上げ
大坂城に残された豊臣家の財宝は、
家康さまの指示で大坂の陣ののち、
約1ヶ月強の期間捜索され、
焼けた倉庫跡から金2万8000枚、
銀2万4000枚が発見されました。
この額については諸説ありますが、
よく言われる額面を記しました。
もちろん江戸幕府が回収しました。
その金銀が大坂から京に到着したのが
1615年・慶長20年6月2日とのこと。
この到着を受けて、6月15日、家康さまは
御所に参内し、三献の儀が取り行われ、
家康さまは以下を進上しました。
天子様へ銀100枚・綿200把
女院・女御へ銀50枚・綿100把
長橋の局へ銀20枚・綿30把
後陽成上皇の元へ譲位後、初院参し、銀50枚・綿100把
ちなみに「三献の儀」とは現代では
婚礼における盃かための儀式として
知られていますが、元は宮中での儀式の1つで、
それが室町時代ごろ、
武士が出自する際に戦勝を祈願し、
打ちあわび・勝ち栗・昆布の三品を肴に
酒を三度づつ飲みほす儀式となり、
さらにそれが婚礼・式典・接待宴席などで
幸先を祈る重要な儀式となっていきました。
家康さまが御所にて三献の儀を取り行ったのは、
禁裏と幕府はこれからもよろしく❗️というような
意味合いによるものと思われます。
6 大坂の町の戦後復興担当は松平忠明さま
大坂夏の陣にて大坂の町は荒廃しました。
しかし江戸幕府は大坂は西国諸大名を抑えるに
あたって重要な拠点と考えていて、
夏の陣終了後スグに大坂の町の復興を
手がけ始めました。
また大坂の町が復興されることは、
徳川幕府によって、戦乱の世が収まる、
ということを内外に知らしめるための
重要な事業の1つでした。
大坂の町の戦後復興を任された幕臣は
#松平忠明 (まつだいらただあきら)さまでした。
忠明さまは、かつて長篠の戦のときに
徳川方として長篠城に籠城した奥平信昌さまの四男で
母親は家康さまの長女・亀姫さま、つまり
家康さまの外孫として1583年・天正11年に誕生、
1588年・天正16年、家康さまの養子となり
松平姓を許されます。
1602年・慶長7年、三河国作手1万7千石の
大名となったのを皮切りに、大坂の陣直前には
伊勢亀山藩5万石を追加加増されました、
大坂冬の陣では美濃の諸大名を率いるはずの
兄・奥平忠政さまが急逝し、
忠明さまは急遽・自領の伊勢亀山兵に加えて
美濃の諸将も率いる大軍の大将となり、
また大坂冬の陣後の大坂城の堀の埋め立て奉行を
なさいました。その実績のため、
大坂夏の陣でも、伊勢亀山兵・美濃の諸大名を
配下に武功をあげました。
このころまでには家康さまの信任も厚く、
大坂夏の陣後、摂津大坂藩藩主となり、
大坂の町の戦後復興に当たったのです。
大坂の町ですが、大坂の陣の前より
運河開削が行われていましたが、
大坂の陣終結後この事業は有志によって再開され、
忠明さまの援助もあり、完成をみました。
この運河を道頓堀と名付けた那覇松平忠明さまと
言われています。
大坂復興を成し遂げたその後の忠明さまは
その復興手腕を江戸幕府に高く評価され、
1619年・元和5年、大和郡山藩12万石へ加増移封、
3大将軍 #徳川家光 さまの上洛時にも名を連ね、
1632年・寛永9年には徳川秀忠さまの遺言で
近江国彦根藩主 #井伊直孝 さまとそろって
家光さまの後見人、 #大政参与 に任じられました。
さらに1639年・寛永16年には播磨姫路藩18万石に
加増移封され西国探題扱いとなり
江戸幕府の宿老として内外に睨みを
効かせました☺️
なお、松平忠明さまが大和国郡山に移封後、
摂津大坂藩は廃止され、大坂は将軍家直轄と
なりました。そして幕府は大坂城の跡地に
新たな大坂城を築き、西国支配の拠点の一つとしました。
7 元和偃武
1615年・慶長20年、大坂の陣の終了で
日本国内の争乱がすべて集結したことを受けて、
後水尾天皇より改元の意向が示され、
家康さまも了承、元号は慶長から #元和 (げんな)に
改元されました。
江戸時代の後の世にこのときの
騒乱の時代の集結のことを
#元和偃武 と呼ばれています。
偃武とは原典を中国古典『書経』に求めた言い回しで、
武器を偃(ふ)せて武器庫に収めることを指します。
この言葉は江戸時代中期以降の儒者の創語だと
推定されています。
なんだ⁉️
元和偃武って家康さまが言い始めた、つか、
金地院崇伝さまか南光坊天海さまが諮問されて
提案した言葉じゃないんだーー🤣🙇♂️💦
8 次回
戦後処理のおおまかな指示を終えた家康さま、
しかし大坂夏の陣でご自身の馬印が倒れ、
旗本衆が一時崩れたことを根に持っているというか、
徳川家臣団はこんな事態になろうはずがない❗️と
お怒りのご様子とか💦
呼び出しを食らったのが三河物語の著者
大久保彦左衛門忠教さまつ❓❗️
頑固者の彦左様が家康さまに食ってかかるー🤣
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