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徳川家康さま☘️をたどる#64☘️大御所家康さま周りの世代交代1

初筆 2023年 12月 15日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 64
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 家康さまは #徳川秀忠 さまに #征夷大将軍 を譲ることで、天下泰平が成り、天下は器量でもぎ取るものではないことを示した。

  • 家康さま2年間の征夷大将軍時代に、二条城と尾張家・紀州家・水戸家の初代当主を作った🤣🤚また江戸と伏見をたびたび往復、鷹狩も頻繁に行う。元気そのものっ🤣🤚

  • 家康さま62歳で征夷大将軍を辞め大御所となった。

  • 秀忠さま、2代目征夷大将軍となった❗️大坂には衝撃が走ったが、家康さま六男 #松平忠輝 さまが秀忠さまの名代として大坂城を訪ね、とりあえず騒動にはならなかった。

⬇️前回はこちら❗️

3 大御所・家康さま🥰

1605年・慶長10年4月16日、家康さまは秀忠さまに
将軍職を譲り、家康さまはこののち
#大御所 と呼ばれることになります。

そして、儀礼や各種権限を少しずつ
家康さまから秀忠さまに移していきます。
もちろん、家臣の役割も旧世代から新世代へ
家康さまは移していきました。
しかし、大御所となった直後の家康さまは
実権を掌握し続けたのです。

1605年・慶長10年正月、家康さま・秀忠さまは
征夷大将軍職引き継ぎのために上洛の途につきます。
このとき付き従った兵は10万騎とのこと💦

この上洛で家康さまは重要な処置あるいは
今後の布石を様々、執り行っています。

4 松平姓の下賜(かし) 


家康さまは外様大名に松平姓を与え始めます。
その初めが、1605年・慶長10年4月8日、
前田利光さまでした。
そして利光さまを従五位下侍従に
奏上、任官させました。

その後、慶長年間を通して
以下の外様大名に松平姓をお与えになります。

  • 蒲生秀行さま

  • 池田利隆さま

  • 伊達政宗さま

  • 毛利秀就さま

  • 山内忠義さま

  • 伊達忠宗さま

  • 蒲生忠郷さま

  • 池田輝政さま

  • 黒田忠之さま

これらは外様大名に
江戸幕府に対する臣従の誓約を
させるための布石となりました。

5 京の整備と御所あるいへ門跡とのおつきあいなど🥰

1605年・慶長10年8月3日、武家伝奏の
広橋兼勝さま・勧修寺光豊さまが家康さまを
訪ねます。禁中地割指図をお持ちでした。

専門用語を知ってる方は知ってるのですが、念
のため少し説明します☺️🙇‍♂️💦

#武家伝奏 とは室町〜江戸時代の朝廷の職名で
諸事にわたって朝庭と幕府の間の連絡職。
江戸時代には幕府が、朝廷側の納言・参議から
学才・弁舌に優れた2名を選んだ。

#禁中 皇居のこと。 #禁裏 ともいう。謂れは「禁」は厳しく出入りを厳重にする、という意味があり、その「中」つまり内側ということ。「裏」も内側という意味がある。

家康さまは、禁中地割指図、すなわち、
皇居・院御所の再配置計画書、武家伝奏を受けて
#相国寺#西笑承兌 (せいしょうじょうたい)さま
に相談し、武家伝奏のお二方や #日野輝資 さまらを
相国寺に集め、院御所の地割計画を検討、
さらに後日、禁裏付近を順次点検しました。

そして #京都所司代#板倉勝重 さまに命じて
禁中(皇居・院御所)の区画を定めさせ、
現状その区域内にある公家衆・門跡の土地・屋敷を
収公し、立ち退いた方々に代替地を与えました。
この際に費用は家康さまが出したとのこと。
家康さまお気を遣ってらっしゃいます❗️🤣😉

また1605年・慶長10年8月16日
家康さまの奏請で仁和寺が諸門跡の首座となりました。
門跡という言葉が出てきましたが
寺社仏閣およびその一門のことです🤚

同時期に家康さまはルソン・カンボジア・安南国
など、東南アジアの諸外国とのやりとりをマメに
始めています。

翌年、1606年・慶長11年4月に
武家伝奏の勧修寺光豊さまに対して
武家の官位は家康さまの推挙なしには
与えないように求めたかと思うと、
同年6月には近江と美濃の国境、関ヶ原の近くの
伊吹山の氷を天皇さまに献上したりしてます🥰

天皇には銅で鋳造した印字(印刷用活字)を
10万近くの字を献上しました。
これは前年に天皇さまの周囲で話題に登った時に
天皇陛下自身が強い関心を示していたとのこと。

同年8月には相国寺の西笑承兌さまを
訪問し銀子などを進上なさっています。

このように大御所とおなりになった当初の
家康さまは

  • 禁中・公家衆とのお付き合い

  • 門跡とのお付き合い

  • 諸外国とのお付き合い

など、経験豊富でないとできない、
儀礼も含めたお付き合いの仕事を
2代目征夷大将軍の秀忠さまには譲らず、
家康さまの手元に置いておきました。

さらに公家衆やら門跡衆とはお能の会を催したり
碁を打つなど、現代のビジネスマンの
日曜日のゴルフ、みたいなことにも
家康さまは時間を割いていました。

6 徳川四天王のその後

徳川秀忠さまが徳川将軍2代目の征夷大将軍となり、
家康さまが大御所となった1605年・慶長10年には
三河あるいは浜松時代からの徳川家臣団は
ご活躍なさらなくなりました💦

徳川四天王についてそれぞれ語ります。

  •  #酒井忠次 さまは1527年・大永7年生まれ、家康さまより14歳年長で、家康さまが天下人と呼ばれる前、1596年・慶長元年にお亡くなりです。年長の家臣は家康さまのよき相談役でした。

  •  #本多忠勝 さまは1548年・天文17年生まれ、家康さまの7歳年下でした。武勇では右に出る者がいず、「家康に過ぎたるものが2つあり唐の頭に本多平八」と狂歌に詠まれるほど☺️ご自身が強いだけではなく、軍を指揮すれば配下の将たちは「背中に盾をしょってるようなものだ」と忠勝さまの万全な指揮を絶賛なさいました。また最終的な領国桑名では善政を施しました。しかし1604年・慶長9年ごろから病がちとなり、政治・軍事の中枢からは離れました。1607年・慶長12年に眼病を患い、1609年・慶長14年、家督を嫡男に譲り隠居、1610年・慶長15年お亡くなり😭享年63歳

  •  #榊原康政 さまも1548年・天文17年生まれ。本多忠勝さまとは同じ歳ということもあり親友だったという記録があちこちで見られます☺️幼い頃から勉学に励み書を好み、さらには達筆であった康政さまは、13歳のときに家康さまに見出されました。個人的な武勇では本多忠勝さまに及ばないものの、一軍の指揮官としては一流で、優秀な采配も振う本多忠勝さまのさらに上とのこと🥰関ヶ原の戦のあと徳川家老中となるものの「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と次世代に官僚職を譲り政治・軍事の中枢からは離れました。1606年・慶長11年、病を患いそのままお亡くなりに😭享年59歳

  •  #井伊直政 さまは徳川四天王の中では少し若手です。1561年・永禄4年生まれ。家柄は今川家の家臣井伊家の正統でしが諸事情により没落してたところを家康さまの小姓になりそのまま直参となりました。高天神城攻めのころからメキメキ頭角を現し、武田家滅亡後は武田家家臣団うち勇猛果敢で名を馳せた赤備え隊を名実ともに引き継ぎ #井伊の赤備え #井伊の赤鬼 と敵将に恐れられました。その後戦場だけでなく政治駆け引きにおいても様々な功績を上げ、徳川家臣団の中で官位も最高位、譜代大名の中でもっとも石高の高い重臣となり、井伊家は幕末まで江戸幕政に参与しました。関ヶ原の戦では逃げる島津勢を凄まじい勢いで追いかけ家臣が着いていけず単騎駆けになってしまったところ鉄砲を足に受けて大怪我をし、さらに怪我が癒えぬまま関ヶ原の戦後処理をし、その鉄砲傷が元で、1602年・慶長7年、お亡くなりに😭享年42歳

というように、酒井忠次さまは関ヶ原の戦の前に
他の3名は関ヶ原のちにお亡くなりになって
大坂の陣には次世代が参加していたのです😭

そして、本多忠勝さま・榊原康政さま・井伊直政さまは
家康さま関東移封時に徳川家家臣でありながら
羽柴秀吉さまも独立大名であることを認められて
いずれも10万石越えの大名となりました。
この論考が江戸時代の徳川家 #譜代大名
原型となったのです❗️

7 家康さまは本当に古参家臣に冷たかったのか❓

家康さまは
「戦国時代をともに駆け抜けた古参家臣に冷淡だった」
とよく言われています。
実際、関ヶ原の戦ののちに徳川四天王に代表される
#三河家臣団 は目立った功績を上げていないし、
三河家臣団は譜代大名にこそなっていったものの
家康さまの歴史を語る時に名前はあまり聞かれません。

これは、徳川四天王に代表される旧三河家臣団は
皆、老齢化していて活躍できなくなっていただけ、
なのではないかと推測できます。
そしてその子供たちはまだ成長途上だったため
目立たないだけではないかと。

本多忠勝さま・榊原康政さま・井伊直政さまは
大身大名となってますし、他の古参家臣たちも
家康さま江戸移封時と関ヶ原後は、
大きい小さいはあれど国持ち大名になっていました。
その点を考慮するならば、家康さまが
古参の家臣に冷たかったのではなくて
家臣軍が世代交代の時期だった、
もっというと家康さまの健康寿命が
家臣たちより長かった🤣💦ということかと
思いますよ🤣🤚

8 次回

それにしても、優秀な人材がことごとく
関ヶ原の戦ののちに亡くなってしまいました😭
みな家康さまがヘタレのころに
家康さまを助けてくれた家臣たち💦

しかし、本当の天下泰平までは
まだやること山積み
家康さまだいじょーぶかー❓❗️💦💦



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