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徳川家康さま☘️をたどる#17☘️ 独立❗️織田信長さまとの同盟

初筆 2023年 1月 6日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#17
⬇️
https://stand.fm/episodes/63c0b16388cd5fb2d84396f1

1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。


2 前回からのつなぎ

前回は、桶狭間後、岡崎城にお入りの
元康さま、今川方として
岡崎城から西三河に侵攻してくる
織田軍を月に3〜5回というペースで
撃って出て行くも、ジリジリ
織田軍に攻め寄せられる、
そもそも三河を取り巻く状況が
わかってるんだか、わかってないんだか
そろそろ織田軍有利であることに
気づけよー。みたいなとこまで
話しました。

前回記事はコチラ
⬇️

3 元康さまご自身の方向性を考え始める

元康さま、今川方の一武将として桶狭間後も
織田軍と西三河地区で対峙していました。
元康さまは松平一族の長であるから
三河全体の治安を保全することに努める
その行為は当然なのですが、そもそも
どのような立場で三河平定するのが
最もよいことなのかをお考え始めたようです。

もし今川方として動くなら
元康さまは西にある織田方を敵として
そちらを守るために攻めることになる。

しかし、このころ元康さまの中で
考え始めたことかと思いますが、
(具体的な決断の様子を描いた資料はない)
織田方に寝返るならば
西の織田軍脅威はなくなり
西三河で勃発していた
反元康勢力との小競り合いもなくなる。
ただモンダイは駿府に残してきた
妻子がピンチとなる。

結果としては、織田方につく、という選択を
元康さまはなさったのですが、そこには

  • 家臣たちの今川方には搾取されてきたという思い

  • 今川方とは同盟ではなく従属であるからの搾取だった。

  • 今は今川方の駿府ではなく領国の岡崎にいる。独立するチャンスじゃないのか

  • 織田方についた場合、独立となるのか

  • 妻子を取り戻す手立ては

あたりをお考えになり、趨勢を現状調査し
各選択肢を比較検討なさったのでは
ないでしょうか?

ほらみなさんも会社辞めて独立するときに
考えるようなことを元康さまもお考えになった
ということですね。

4 織田信長さまと同盟・今川支城を攻める

元康さま、結果
織田信長さまと同盟を結ぶことにしました。
この家康さまをたどるシリーズにも
これまで出てきた元康さまの伯父様・水野信元さま
が仲介くださったとのことです。

この決断前に元康さまは
今川方の情勢、織田方の情勢
それぞれの後ろに控える勢力はどんなんで
今川家、織田家がなくなった場合
いや、その背景の国々がなくなった場合
どういった勢力バランスになるのか、
くらいはお考えになったんじゃないかと思います。

この辺、ドラマとかだと迷うお姿が
描かれますが、そのあたり
ご自身でお考えになったのか、
はたまた家臣たちの合議なのか
あるいは、家臣たちが若殿の
元康さまを叱咤激励しつつ
決めていったのか、それは
私たちも自由に想像してよいけど
個人的には、元康さまは
あーでもない、こうでもない
いやー嫁はんと子供は駿府に
いてるしー、あー、人質状態やんかー
ってこの時点で気づくくらい
ぼわーーとした人やと思いたいですね😀

なおこの同盟の様子、
大久保彦左衛門忠教さまの著・三河物語には
記述がなくただ「そののち信長と和議を結び」
とあるだけで同名の時期もだいたいしか
記述がありません💦
もうひとつの一次史料である、信長公記にも
同名の様子の記述はありません。

またいろんな家康さまの本を
読んでも、今川方の支城を攻め始めた
の記述があっても、具体的に
いついつ同盟というのはなく
出典が明らかではないけど
これまで言われてきた説の
桶狭間の戦の9ヶ月後
1561年(永禄4年)2月に
水野信元さまを介して織田信長さまと
和睦、ということで、それを
以って同盟、ということなのかもです。

常識的に考えるとこういった
大切な軍事同盟は
元康さまは、信長さまに
ご挨拶に出向いたと思うし
ドラマなんかでもこのときに
元康さま信長さまに対峙して
ビビる、とか、織田家家臣の
徹底的に訓練された様子に
圧倒されるとかそんなシーンも
よく制作されてますが、
実際はどうだったのか
ご挨拶対面があったのか、書簡だけだったのか
水野信元さまの口伝えだけだったのか
一次史料からはわかりません。

ただ言えるのんは
世間的に言われている信長さまの
キャラの、まどろっこしいことは
嫌い、形式なんかええからはよせー
いう性格からすると、
和睦は同盟でワシは西向けに攻めるから
おまえ(元康さま)さっさと
東行けやー、を水野さま経由で話聞いて
元康さま、やば、もうさっさと行かんとあかん
ビビらはったんちゃうかなー思います。

5 織田方として周囲を攻める

一次史料・三河物語によると
東条および西尾には今川方の吉良さまの
支城があり、元康さま軍勢はそのあたりを
攻めたことが記述されてます。
また牛久保という土地を攻めたともあります。

今川氏真さまは、西尾・東条・牛久保攻めを聞き
「今度、松平蔵人(元康さまのこと)
 敵対せしむ」と表した文書が「牧野文書」
に残っていて、これが、
元康さまは織田方についた、あるいは
今川方から独立した、ということが
わかる明確な史料のようです。

この東条・西尾から牛久保攻めは
三河エリアの有力豪族に影響を与え
元康さまについた者あり、
また引き続き今川家に与する者あり
以下のようでした。

元康さま方

  • 牧野平左衛門入道(宝飯郡)

  • 牧野弥次右衛門尉(宝飯郡)

  • 西郷氏(八名郡)

  • 田峯菅沼氏(設楽郡)

今川さま方

  • 東条吉良氏(幡豆郡)

  • 牧野成定(宝飯郡)

  • 鵜殿氏(宝飯郡)

  • 奥平氏(宝飯郡)

  • 大給松平氏(加茂郡)

今川方だったのに、
この元康さまの東条・西尾・牛久保攻めの
ご様子をみて、元康さまに与する
豪族も上記のように現れた❗️

元康さまはこれまで今川家に搾取されることで
その保護下にあったのを、その従属関係を断ち、
本格的に敵対・開戦に進んだのは
桶狭間後の国々の情勢における
地域「国家」存続のための大きな決断でしたー


6 次回

さて今川方を攻めることになった元康さま
ところがさまざまなモンダイが発覚し
さらに三河は動乱になっていきます❗️
それは
三河一向一揆❗️❗️❗️

また駿府と開戦して、奥様・ご子息は
果たしてだいじょーぶなのっ❓
それも話せたらいいですねっ

おっ楽しみにっ❗️❗️


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