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徳川家康さま☘️をたどる#73☘️大坂攻めの理由を作りに行く家康さま😉🤚

初筆 2024年 2月 17日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 73
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 1612年・慶長17年ごろ、家康さまは、寺院諸法度・寺社諸法度と呼ばれる門跡への法度を多く出し、寺社の役割を確定させた。

  • 1612年・慶長17年ごろ、家康さまは、後の禁中並公家諸法度の原型である公家衆法度、そして紫衣の格を持つ寺社への紫衣法度を発給した。

  • 1612年・慶長17年、家康さまは、豊臣秀頼さま会見にて秀頼さまの成長ぶりを見て、何らかの豊臣家・豊臣秀頼さまの処置は必要である、と、ご判断なさったが、まだ豊臣家を滅ぼそうとは考えていなかった説が有名🤚

  • 家康さまは、方広寺大仏鐘銘の文言「国家安康」に無礼極まりないとお怒りになり、家康さまと豊臣家はこじれ始めた💦

⬇️前回はこちら❗️

3 家康さまの大坂方への仕掛け

方広寺大仏鐘銘に記された文言のうち
「国家安康」の文字をはなはだ無礼❗️と
指摘された大坂方は慌てふためきました。
「家」「康」の文字の間を切るとは
呪詛に等しい、そもそも、諱を入れ込むこと
自体が失礼極まりない、という家康さまからの
異議が提示されることを大坂方は思ってもみてなくて、
むしろ「家康」の文字を入れることは
祝意をさりげに入れ込む趣向というつもりでした。

慌てふためいた大坂方は
1614年・慶長19年8月19日に
大坂からやってきた豊臣家家老の
#片桐且元 さまが駿府入りをなさいますが、
家康さまは対面しようとしません。

駿府に到着なさってるはずの且元さまから
何も連絡がないのを不安に思った大坂方は
さらに、 #淀の方 の乳母であり才女の
#大蔵卿局 を駿府によこし到着したのが
1614年・慶長19年8月29日、
この大蔵卿局が駿府いらしたことを
家康さまはうまく利用することになるのです😉🤚

4 片桐且元さまへの対応と大蔵卿局さまへの対応の違い

1614年・慶長19年9月に入り、駿府にいらしていた
片桐且元さま・大蔵卿局さまへと徳川方からの面会は
家康さまの意を受けた
#本多正純 さま・ #金地院崇伝 さまが行いました。

ここで、片桐且元さまとの会見、
大蔵卿局さまとの会見は、別々に行ったのです。
この、会見を別々に行うことが
家康さまの意図を含んでいるのでした。

  • 大蔵卿局さまには、家康さま・ #徳川秀忠 さまとも、 #豊臣秀頼 さまを疎んじる意向はないことを伝え、朗らかな会見としました。そして、且元さまより先に大坂に返したと聞き及びます。

  • 片桐且元さまには、家康さま・秀忠さまとも秀頼さまに対して疎意はないことは大蔵卿局さまと同様に伝えましたが、秀頼さまには、徳川家に対して隔意のないことを示す証、とは微妙な言い方ですが、すなわち、臣従する意の証を求められました。そしてその証の具体的な方法は会見で徳川方から示されず、片桐且元さま分別にて提案せよ、つまりご自身が考えよ、とされたのです。

5 片桐且元さま襲撃未遂事件

大坂に帰った片桐且元さまは、
秀頼さまの徳川家に対する証を
以下の2案のいずれかを採択するべき、と
大坂にて言上しました。

  • 秀頼さま、あるいは、淀の方が江戸在府となる

  • 秀頼さまが大坂城を出て他国に移る

ところが
駿府から先に帰阪していた大蔵卿局さまから、
徳川家は豊臣家に対して疎意なし、という意向を
伝えられていた豊臣家内の🆚徳川家強硬派は、
片桐且元さまが駿府に下った際に、
日が経ってもなかなか大坂に連絡が来なかったのを
家康さまとの談合があったものと考えました。

そして、上記の2案を聞いた🆚徳川家強硬派は、
片桐且元さまの徳川家に対する提案内容を、
家康さまに言い含められた内容である、と考え、
片桐且元さまは徳川家へ寝返っている、と、決めつけ、
大坂城に出仕する且元さまを襲撃しようとしました。

ここで徳川家強硬派、とは、
#大野治長 さま・ #渡辺糺 さまを中心とする
秀頼さま側近のことです。

しかし、且元さまはこの動きを事前察知し、
且元さま自邸を武装させました。
この時点で片桐且元さまは大坂方を
見限ったのでしょう💦
このとき秀頼さま・淀の方さまは
片桐且元さまと豊臣家内🆚徳川家強硬派の
調停しようとしましたが、いずれの派も
考えを改めず、調停は徒労に終わりました。

大坂城内の家老役の数々を引き継ぎ後、
片桐且元さまは軍勢を引き連れ、
大坂城を退去し、且元さま弟の居城である
摂津茨木城にお入りになるとともに、
且元さまは家康さまに、
大坂でご自身が襲撃されるところであったことを
お伝えになりました。
「もうムリ」いう報告ですね💦

また京都所司代 #板倉勝重 さまからも
一連の大坂での動向が家康さまに報告なされました。
1614年・慶長19年9月末〜10月1日のことでした。

6 大坂に対して開戦を意思表示する家康さま

ここで片桐且元さまのお立場を話しておきます。
片桐且元さまは古くからの豊臣家恩顧大名であり、
関ヶ原の戦以後は豊臣家家老で、
外交・所領内内政を一手に引き受けていて、
外交官として #徳川家取次 というお立場でした。

そして、
他家への取次役が追放される、
あるいは襲撃される、という事態になる
= 取次先の家とは断絶となる、というのが
この時代の常識です。
つまり、片桐且元さまに対して襲撃未遂事件を
起こした大坂方豊臣家は徳川家と断絶したのです。

家康さまは、これを待っていた、とも言えるし、
駿府での片桐且元さま・大蔵卿局さまへの対応を使い
これを仕掛けていった、とも言えます。

そして、家康さまは、
大坂方の🆚徳川家取次追放を理由に
1614年・慶長19年10月1日、
片桐且元さま襲撃未遂事件の報告が
駿府に届いたその日に大坂攻めの決意を示しました。

豊臣家に対して開戦する名目を
作りにいったのは、家康さまご自身であった、
というのが、大坂冬の陣開戦における通説です。

方広寺大仏鐘銘の一件の申し開き・詫びで
駿府に下った、片桐且元さま・大蔵卿局さまに
別々の対応をして、
片桐且元さまには方広寺大仏鐘銘の一件の後の
豊臣家去就を考えさせ、大蔵卿局には
アンシンしてください、とだけつたえる、という
対応の違いが家康さまの仕掛けでした。
こうすることで、

  • 片桐且元さまが提示した、秀頼さままたは淀の方さまが江戸在府となるなら、これは世間に「豊臣家は徳川幕府に臣従した」と世間に明示できるため、それでよし。

  • 片桐且元さまが提示した、秀頼さまが国替に応じるなら、これも秀頼さまの徳川家への臣従を明示できるため、それでよし

  • 上記2ケースは、別途豊臣家を滅ぼす方策を探す

  • 徳川家取次役の片桐且元さまが大坂城内で淀の方さまと敵対するなら、大坂攻めの理由になるため、これが1番よし❗️

家康さまはここまでお考えで、
駿府において、片桐且元さまと大蔵卿局さまに
異なる対応をしたのでしょう。

7 大坂攻めの陣触れ

1614年・慶長19年10月1日に大坂攻めの
陣ぶれを出した家康さまは、
10月23日に上洛、二条城にお入りになりました。
#藤堂高虎 さま・片桐且元さまを登城させ、
大坂城の掘りの深さや攻め口のありようを
ヒアリングなさいました。
そして #大坂冬の陣 では、お二方に
先鋒をお命じになりました。

また、江戸在府だった秀忠さまは10月23日に
江戸をお発ちになりました。
家康さま付きの本多正純さまに書状を送り、
自分が到着するまで開戦しないように、と
家康さまに申し伝えています。
関ヶ原の戦での遅参がよっぽど堪えていた
秀忠さま🤣💦も大坂の陣では大将のお一人として
しっかり陣をお張りになりました。

大坂冬の陣への出陣命令が出たのは
徳川家の主な親藩大名・譜代大名、はもちろんのこと
ほぼすべての外様大名にも出陣命令が出ました。
日本全国の大名がほぼ大坂に集結しました。
ただ、 #福島正則 さま・ #黒田長政 さまなどの
豊臣恩顧の大名は江戸に留め置かれました。
家康さまは、大坂方への加勢を恐れたのですね。

大坂冬の陣に集結した徳川方勢力は20万人でした💦


8 大坂城内・豊臣家の軍事事情

1614年・慶長19年の時点で
大坂城内の軍事事情はどのようだったのでしょうか❓💦

少し時代をさかのぼり
1611年・慶長16年〜1614年・慶長19年の間に
豊臣恩顧の大名が続いてお亡くなりになりました。
お亡くなりになったのは以下の方々です。

  •  #浅野長政 さま

  •  #堀尾吉晴 さま

  •  #加藤清正 さま

  •  #池田輝政 さま

  •  #浅野幸長 さま

  •  #前田利長 さま

これらの家々では当主が代替わりしていて
豊臣家にお世話になった、という意識が薄れていて、
それが豊臣家の孤立を深めていました。

そのような状況を考えた
豊臣家内の🆚徳川家強硬派は
前田家との関係を再構築しようとしたり、
幕府に無断で朝廷から官位を賜ったり、
兵糧や浪人を集め始めたそうです。

江戸幕府との戦が大坂で勃発する、
豊臣家が浪人を受け入れている、
というウワサを聞き及んだ、
日本全国にいた浪人衆や
関ヶ原の戦で西軍につき、敗戦後、改易されたり、
蟄居を命じられていた諸将は大坂城に
続々と入ってきました。
豊臣家家臣も含めてその数は9万人と
言われています。

大坂城に入った諸将の主だった者は以下です。

  •  #明石全登 さま

  •  #後藤基次 さま

  •  #真田信繁 さま

  •  #長宗我部盛親 さま

  •  #毛利勝永 さま

でした。

9 次回

大坂城にこもる秀頼さま、というより、
大阪城内強硬派と浪人衆。
そして大坂城を取り囲む徳川方諸将。
大坂冬の陣の火蓋が切って落とされるっ❗️

家康さまの中の戦後処理ビジョンは
果たしてどんなものだったのかっ❓❗️




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