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鉄鼠(てっそ)

見出しの画像は、ネズミの妖怪鉄鼠です(画像出所:ウィキペディア)。この妖怪の出現には、比叡山延暦寺と三井寺の抗争が関係しています。

延暦寺VS三井寺

延暦寺

三井寺

上の画像は、延暦寺(画像出所:延暦寺)と三井寺(画像出所:三井寺)です。今回は、京都ではなく滋賀が中心です。平安時代中頃、比叡山では、円仁派と円珍派の対立が激化し、円珍派は三井寺に移ります。残った延暦寺(山門派)と出て行った三井寺(寺門派)は、その後永きにわたって、対立します。その対立は、思想的な対立から、政治的、武力的な対立に発展します。その三井寺に、頼豪という僧が登場します。頼豪は、白河天皇の信任が厚く、戒壇の創設を願いでます。ところが、対立する延暦寺の妨害によって、実現しませんでした。怒り浸透の頼豪は、断食して亡くなります。『平家物語』の読み本や『太平記』によりますと、頼豪の怨霊は、鉄鼠というネズミの妖怪となって、延暦寺の経典を食い破ったそうです。両寺の対立が、妖怪まで生み出したことになります。

延暦寺焼き討ちと三井寺

御存知の通り、織田信長は延暦寺の焼き討ちを行います。このとき、信長軍が陣を置いたのが、三井寺です。両寺の対立は、戦国時代も続いているのです。

ところで、この焼き討ちを実行したのが、明智光秀です。信長の命とはいえ、信心深い光秀が、なぜ比叡山の焼き討ちで皆殺しを行ったのでしょうか。この問いは、江戸時代にもあったようで、都市伝説が生まれています。京都精華大学の堤邦彦先生が、指摘されていますが、江戸時代に『御伽人形』という怪談集が出ています。それによると、比叡山に恨みを持って亡くなった明智坊という僧が、光秀の前世だというのです。そのため、光秀は、残酷な比叡山の焼き討ちを行ったそうです。いつの時代も都市伝説はあるのですね。下の画像は、明智光秀です(画像出所:ウィキペディア)。

明智光秀


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