好奇心とめんどくささのはざまにいる癖
好奇心がある人にあこがれる。
「好奇心がある」という言葉には、偏見がない、柔軟な考え、吸収する意欲がある。新しいことに対して前向きというポジティブな印象があり
その先にも、成功や成長の可能性が広がる期待がある。
それになんとなく、「好奇心のある人」という人には無邪気というかキラキラしている感じがする。生命感が感じられて魅力的なのである。
そんな風に自分もなりたいという気持ちはある。
しかしながら、好奇心を向ける対象というのは未知であるものがほとんどであり、
未知、知らない。つまりこれから学ぶことが多いことになる。
何かに興味を持ち始めたところに、ちょっとしたきっかけで学ぶ内容の奥深さを垣間見た時に、
その裏には自分の想像以上の未知の世界とその世界を理解するための知識が広がっているのを感じとれてしまう。
新しく広い世界を前にすると
「好奇心」という言葉のキラキラした印象とは対照的な、
「学ぶべき知識」には海底のヒビの中に見る終わりの見えない暗やみをも感じてしまう。
この暗がりを泳ぐエネルギーがあるのかと自問すると率直なところ「ちょっとしんどいな」と感じるのだ。
これからこの知識の海に潜り、新しいものを得るために深度を下げて探検をするのかと思うと、そこに飛び込むこともできないでいる。
結局はコンフォートゾーンを抜け出せないでいるのである。
ここで好奇心(に対する憧れ)とめんどくさいのはざまでゆれる。
コンフォートゾーンを抜け出さないと自分に成長はない。
それはわかっている。
そしてそこを抜け出して前に進める人はかっこいい。
それもわかっている。
もっと言うと、一番かっこいいのはコンフォートゾーンという概念がそもそもなく、
「好奇心」というエンジンでどこまでも前に進めてしまう人である。
それも知ってる。できりゃそうなりたいよ。
でも相変わらず、新世界の海に飛び込む度胸も気力もない。情けない話。
せいぜい浮き輪をつけて、ぱちゃぱちゃシュノーケルで水面から海の中を眺めてる程度である。
シュノーケルをのぞくと、水面から見える範囲の浅い知識のほかに、意気揚々と海底に向かって潜っていく人達が輝いて見える。
自分の乗っているこの浮き輪、どこで買ったんだろう
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