平成の総括と令和への展望を
今日、令和元年の始まりに残しておきたいものとして。
昭和天皇陛下が崩御されたとき、高校2年生だったボクはファミコン(何かのRPGだったと思う)を徹夜でして、そろそろ寝るかとテレビをつけたら、NHKで緊急ニュースをやっていた。
それが昭和の終わり。
それはさておき、平成という区切りを考えてみたとき、どういうことだったのか。
ボクにとっての平成という時代を一文であらわすと、「奪い合う消費経済、その終焉プロセスのシミュレーション」と思える。
シェアを拡大しきって、そこから縮退していく経済を体現した日本の。
そして同時に経済自体がグローバリゼーションなるものを総体とする前提となり、経済環境は無限ではなく有限の範囲であることの露呈も示した。
有限である以上、誰かが増えれば誰かが減ることが自明であり、全体が縮退していくと、全員が減っていくことが確定している経済。
その機関システムを担った、産業の連環システムとマネー資本主義。
ゴミを生産し、地球を汚し、コミュニティを分断し、企業を競わせ、国家を争わせることをもって機能した経済。
その環境下において、平成日本はいったんの頂点を極め、そこから凋落していくことを体験した年間であった。
もう我々は分かっている。
奪い合いの先には疲弊しかないことを。
そして、全体の破滅すら予見されることを。
平成から十分に教えられ十分に学んだ時間帯が終わる時に、なにを思うか。
平成からの反省として向かうべきは、「奪い合わなくても成立する経済」。
それは譲り合う、分かち合うということとは単純に同義でないこととして。
令和は、そうした平成の流れを引き受け、新たなものを放つ時代として時を刻む。
消失していくものが反転し、調和へと向かう伝わり。
もし、自然のような完全なる循環が経済となったなら、それは人類とその技術が最も成熟した証ではなかろうか。
誰も死なない車、なにもゴミにならない家電や家、地球を汚さない製造物、食べる分だけ作られ必要なだけ獲られる食物、そして意味を失い不要になる貨幣。
こうしたことへの幕開けとなる時代、令和であって欲しいと願う。
無論、その時代をつくるのは、我々自身の具体的なアクションであることも自覚しつつ。
すめらみこといやさか(皇尊弥栄)。