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ゴールデン街酔夢譚~第一話~

「すいません、うち、会員制なんで」

僕を一瞥するなり早口にそう言って、店員は扉を閉めた。締め出された店内の様子がガラス窓から見える。カウンターに戻った店員は客たちと談笑している。人々の笑顔が見える。

(これで、三軒目か…)

扉に背を向け、宵闇の中、灯りのついた看板の並ぶ通りを物色し、次に試みる店を探すべく、僕は路地のような細い道をそぞろ歩きはじめる。

ここは新宿ゴールデン街。元々一見さんお断りの店もあるが、新型コロナウイルス感染症に伴い、営業時間が制限されていることもあってか、僕のような新参者にはことの他厳しい。

後日誰かから聞いたところ、当時は、営業状況の調査のために、身分を隠した警察官や自治体職員が訪れることもあったそうで、街全体として、見知らぬ人への警戒心が強かったのだろう。とはいえ、そのときはそのようなことを知る由も無い。

1ヘクタールも無い土地に300店近くのバーや飲食店がひしめく新宿ゴールデン街ではあり、僕を受け入れてくれそうな店が一件くらいあってもよさそうなのに、なかなか見つからない。

だが、ここでゴールデン街を見限るのも口惜しい。門前払いと言っても、証券会社時代の飛び込み営業と比べたら何ということは無いではないか。

そう。新宿ゴールデン街で飲むために、会社を辞めた僕は、わざわざ歌舞伎町に引っ越してきたのだから。

半年ほど前、直属の上司に辞意を切り出したときのことは、今でも生々しく覚えている。その顔には、安堵とも軽蔑ともつかない表情が貼り付いていた。大学卒業後、新卒で入社し、25年ほど勤めた大手証券会社を、僕はこのたび退職したのである。

新卒研修後、名古屋の営業所に配属された新人のうら若き僕は、近所の商店街の個人商店主を中心に、ひたすらにアポ取りの営業電話をかけていた。だがもちろん、すぐに往訪できるわけではない。

「課長、ヤマナカ商事から契約取れました!」
「おお、そうか、よくやった!!」

ときおり聞こえてくる、同期の景気のいい報告やそれを褒める課長の声が、オフィスの隅でただただ電話をかける僕の背中にダーツの矢のようにざくざくと突き刺さる。

要領のいい同期が官公庁や法人などを相手にどんどん契約を決めてくる中、焦りと不安に圧し潰されそうになっていたある日、たまたま一件アポがとれた。商店街の喫茶店の店主だった。藁にも縋る気持ちでオフィスを飛び出す。

古ぼけた喫茶店には客はおらず、店の隅の席で話を伺うことに。その店主は、70歳くらいの男性で、商店街の人間関係や、家を出て東京で働いている店主の息子の話、最近の客足など、契約とは関係ない、ほぼほぼ老人の繰り言を聞かされた。

こちらは契約の話がしたく焦れてはいたが、何か糸口は掴めないかと、精一杯の愛想笑いを浮かべ、相槌を打ち、聞き続ける。ようやく終わったと思って時計を見ると、3時間も経っていた。店主は、顔を上げ、こちらの目を見据え、

「蟹江さん、あなた、なかなか辛抱強いですね。若い方は、こちらが世間話をはじめると、すぐ遮って別の話をしようとするのに。藤堂さんの言うとおりだ」

そう言って穏やかな笑みを浮かべて見せる。

「実はね、」

そう話しかけてくれた店主、実はこの地で三代に渡って商売をしている商店街の理事であった。そして、様々な店の状況を教えてくれたのである。

「この辺りは、古くから、地場の証券会社の営業マンがよく出入りしているから難しいかもしれないけど、惰性で契約している人が多いから、その辺りの条件を聞き出してみて、よりよい商品を提案してみてはどうです」

電話電話に明け暮れた一日が変わるかも。そんな希望の光が差してきた。契約にこそ至らなかったが、何かヒントを掴めたような気がして、僕は勇んでオフィスに帰っていった。

同期たちが退勤していく中、今日の話を咀嚼し、翌日以降のテレアポと往訪の予定を作っていた僕の背後に人の気配。振り返れば課長がいた。

「おい、蟹江、ちょっと顔貸せ」

今月もまだ数字が上がっていない僕を締め上げにきたに違いない。会議室に連行され、テーブルを挟んで向かい合う。

「お前、今日、俺に報告することがあるんじゃないのか」

忘れていた。営業マンは、退社する前に、その日の進捗と営業活動を課長に申告することになっていたのである。帰社したときには課長が席を外していたので、ついつい忘れてしまったのだ。僕はカミナリを覚悟して目を伏せる。

「商店街、行ってきたんだろ」

課長の声は思っていたよりはるかに穏やかで、優しくすらあった。課長の態度に促され、喫茶店店主との3時間にわたる世間話と、その後のアドバイスをかいつまんで報告する。

「ほう、お前にしちゃ上出来だ」
「あ、ありがとうございます」

深々下げた頭の上を、課長の拳が小突く。

「調子乗んな。せっかく情報もらったんだ。明日以降、きっちり契約取れるよう動けよ。アポとって行ったら、ついでに周辺の飛び込みもやってみろ。わかったな」
「は、はい」
「俺はもう帰るから、お前も適当に切り上げろよ。おつかれさん」

自席に戻って帰り支度をしつつ、オフィスを出る藤堂課長の後姿をぼんやりと見ていた。そういうことか。

「藤堂課長、今日は、ありがとうございました!」

僕のかけた声に振り返ろうともせずに、藤堂課長は片手を挙げて見せてくれた。25年後の今、社長にまで成り上がった藤堂さんだったが、その藤堂さんと、僕は、袂を別たねばならなくなったのである。

(第二話へ)

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