「セルヴァンテスは、ドン・キホーテではなかった」
三島由紀夫の言葉である。
最初の本のあとがきで、私がそれを磯田光一の三島論中の言葉として誤記したことは既に書いたが、考えてみると、それは単なる誤認というより、どうやら私の裡にあった三島由紀夫に対する厭悪によるものだったようである。
評論集『小説家の休暇』で三島は、
《ドン・キホーテは作中人物にすぎぬ。セルヴァンテスは、ドン・キホーテではなかった。どうして日本の或る種の小説家は、作中人物たらんとする奇妙な衝動にかられるのであろうか。》
と述べている。
FBの場でドン・キホーテをめぐるやり取りをする中で、中谷光宏氏は、
《ドン・キホーテも三島も、端からどれだけ嗤われようと、主観的には自分の行為を微塵も滑稽だと思っていません。しかも、その主観的真剣さと客観的滑稽さの落差が生み出す、いわば「反時代的ユーモア」によって、ドン・キホーテも三島も、笑いを提供しながらも、読者の胸のうちに何か深い倫理的感動をもたらすのです。》
と大変重要な指摘をされた。まさに然り、である。その上で氏は、
《三島由紀夫は、サンチョ不在のドン・キホーテという感じもしますね。サンチョがいれば、あるいは自決までいかなかったかもしれません。神輿を担いだり、褌姿になったり、自衛隊に体験入隊したり、楯の会を作ったりしていたのは、彼なりにサンチョとの出会いを求めてのことだったようにも思います。》とも述べられたのだ。
それに対して私は、
《ドン・キホーテ、すなわち、アロンソ・キハーノ自身の裡にもサンチョがいるはず、などと考えています。最後の、サンチョ、よく聞けよ、の場面など、まるで自身の俗身に語るかのようにも読めるのでは。》と答え、
《サンチョは我々の裡にもいるのではないか、三島はいざ知らず、我々はドン・キホーテ気取りにさえなりうるサンチョ、そしてまた自らをサンチョと知ったドン・キホーテともいえるのではないか。》などと記したのである。
さて、そこで冒頭の三島の発言「セルヴァンテスは、ドン・キホーテではなかった」を思い出してみれば、三島もまた、「作中人物たらんとする奇妙な衝動にかられ」たと見えてくるのではないか。
「日本の或る種の小説家」――私小説作家らが、小説の中で自らを「作中人物」たらんとしたのであれば、三島は、小説の外で自らを「作中人物」に化そうとする「衝動」にかられたのではないか。「ウェルテル効果」が小説の現実世界に与える影響だとすれば、三島は、いわば自作の「ウェルテル効果」を率先して生き、死んだと見えるのだ。
私は、
《三島その人は知らず、その作品世界は、我々読者をサンチョ――凡常の徒として従えて進まんとしていたかのように見えてきます。無力なる者として老いることを拒んだ作家の世界が、風車に向かって……。》
として、その投稿を締めくくったのである。
三島よ、「セルヴァンテスは、ドン・キホーテではなかった。」とは、我々は皆、重々知っているのだ。その上で、あれこれ読み取り、作者と作中人物を繋げたり、切り離したりして、褒めたり、貶したりを勝手に楽しんでいるのが、我々読者である。他の作家たちも同様、知らぬはずはないのだ。
作者の実生活など、興味はあれど、なおかつ、わざわざ覗きたくもない、と思うのである。睡眠薬を飲んでの入水心中や、太刀を振りかざしての大見得等々で騒がされるなど、御免なのだ。卑俗な好奇心を搔き立てられるのも、全く閉口である。が、
早く、書棚に収まってくれ。
などと言いながらまた、耳目に入れば度肝を抜かれ、いささか感心もしてしまうのが人情。やれやれ、それが、我々読者のサンチョ的在り方なり、と思うのだ。
こうして、作家の実生活に対する私の嫌悪は、太宰や三島への距離感を増し、また、その表現への注視を唆しもしたのである。
そして今は……何とか、人間誰しも、とまずは驚かずにいられる所までは来たようであるが。
おいおい、サンチョよ、目の色変えて勝手に何処へ……。
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