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「通うんだからね」という文章から想像されうる性別について
――タイトルの文章について、誰の声で再生されただろうか。
表現の明快さは時代によって変化するという話。
谷崎潤一郎の「文章読本」を読んだ。昭和9年に発行された、文章の書き方、読み方の指南書である。かの小林秀雄、川端康成といった文豪にも支持された名著である。どうでもいいが私は最も好きな小説として谷崎の「春琴抄」をよく挙げる。
さて、以下は「文章読本」からの引用である。登場人物の言葉遣いに関する記述である。
『おそらく皆さんは「通うんだからね」と書いてあれば男の声を想像し、「通いますのよ」と書いてあれば女の声を想像するでありましょう。』
「通いますのよ」という文字から女の声を想像するという部分はその通りであった。現代では大時代な話し方にはなるが、この言葉遣いから男性を想起する人はほぼいないだろう。よって性別を明快に表す書き言葉としては現代でも十分に通用する表現である。
問題は「通うんだからね」である。
このセリフが私には釘宮理恵の声で再生されるのである。ツンデレキャラ全盛時の釘宮理恵、その人の声が再生される。上記の文章を読んで、「通いますのよ」で川澄綾子、「通うんだからね」で釘宮理恵が想起されて、勝手に気分が高揚したのである。
この個人的脳内CVは抜きとしても、最早「通うんだからね」という表現が持つ性別の明快さは失われているのではなかろうか。こんなくだらないことではあるが「言葉は生き物」だという言葉を実感した。うん、確かに時代によって言葉が持つ意味は変わっている。
蛇足になるが、少年期に取り込んだメディアというのは自分の思考回路に思いのほか大きな影響を与えているということを痛感した。この時期にもっとまともなメディアに触れていたらまた違った自分がいたのだろうかという無意味な虚無に晒された。
最後にもう一度、件の文章を読んでいただきたい。
「通うんだからね」
誰の声で再生されただろうか。
(787文字)