国語と美術が好き。なので文学×絵の記事を作っていきます。
宝相 蜜(ほうそう みつ)と申します。
はじめまして。
隣の猫は助手のちまきちゃんです。
ひとつめの投稿です。
プロフィール及びプロローグの投稿です。
普段、絵を描いています。油絵、水彩画、鉛筆画などなど。
自分の名前は仏教用語から付けました。
(その話はまたいつか。)
noteでは文学×絵の記事を投稿していく予定です。
といっても元々特別に活字好き、読書好きという人間ではありません。
国語が好き。
こどもの頃、国語の授業が好きでした。
小学生~高校生まで必須教科だった国語。
教科書が配られたその日のうちに国語だけはひと通り目を通し、掲載されている小説や随筆の文体・リズム・内容を味わい、著者の顔写真を眺めて人となりを想像し、人生を想像し、どういう授業が展開されるのか楽しみに待つ。
まるで映画の刺激的な予告編から本編を予想し、公開日に向けてわくわくしているみたいでした。
国語の授業は人の頭の中の映像が覗ける。絵画展を見るみたいに。
中学生のとき、『遠く、でっかい世界』(椎名誠 著)という随筆を授業で読みました。
人々は目の前の井戸端会議にばかり夢中で周囲の広大な青空や入道雲に気づかなくなってしまったのだろうか、といった作者の提言で締めくくられていたことをうっすら覚えています。
先生が私たち生徒に出題しました。
「あなたたちが遠く、でっかい世界を感じるのはどんなときですか。」
生徒は隣近所の席の子とひそひそ相談しながらそれぞれの「遠く、でっかい世界」に思考をめぐらせました。
小休止のようなゆるやかな時間。
……
と、そのひとときを破るように一人の生徒が先生に名指しされました。
物おじせず静かに彼女はこう答えました。
「駅のホームで、自分とは反対方向の電車に乗る人を見たときです。」
思春期の自分は理屈っぽく、頭でっかちだったので淡々とした彼女の答えが最初なんの話かよく分かりませんでした。
とにかく壮大なイメージを持たなければ、という先入観で肩に力が入っていたのですね。
先生はすかさず鉄道会社のCMのキャッチコピーを引き合いに旅を語り、生徒の答えに関連するイメージでどんどん即興に授業をつないでいきました。
私は「ああ、先生も答えた子も私の今まで知らなかったイメージや映像を頭の中に持っている。そしてそのイメージや映像で対話をしつつ、私たちにも共有してくれている。」などと感想を持ったのでした。
「遠く、でっかい世界」というそれだけの言葉からどこかの駅へ、そして反対側の電車でさらに未知のどこかへ……。
美術館で絵画を前にして作者の思念を浴びているときのような恍惚感がよぎりました。
国語も美術も考察。
国語の問い→映像の脳内再生。
このことをきっかけに国語、および文学というものは考察の切り口次第でいくらでも新しいイメージ映像が発生し続けるのだと気づきました。
(思い描いた本人が表現に落とし込まない限り、頭の中ですぐに発生・消滅のサイクルをたどる儚さにも気づきつつ。)
また逆に、美術館が好きでこどものころから絵を「読むように」見る癖があった私は考察や感じ方次第で絵からさまざまな言葉が生まれることもなんとなく感じていました。
(絵を読むように見る、とは絵に描かれた人や物の背景を想像し文章化して鑑賞するということです。)
国語と美術が自分にとって互いに欠けてはならない対のものになっていきました。
なので文学×絵の記事をつくっていきます。
相互的にイメージ映像・図像、言葉の交感が行われる(と思っている)文学と絵を掛け合わせて思うままに記事を作っていきます。
ゆるりと楽しみに読んでいただけたらと思います。
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