【メメント モリ】第9話 エピローグ 死者に捧げる鎮魂歌
道路に吸い付くような走りを見せ、その黒く重圧感のある車輌は緑に包まれた静かな霊園に到着した。車輌からはさほどエンジン音も振動も聞こえないほどの静粛さである。暫くするとカタンと良い音が静かに響き、後部座席のドアから上品な雰囲気を漂わせたダークスーツ姿の男が降り立った。
青々と茂る木々が霊園内を覆い、緑の天蓋が夏の日差しを遮る。時々、木々の間を心地よい風が吹き抜けると、その涼しさに男の表情が綻んだ。
春の霊園の桜は見事だが、男は葉桜が生い茂る生命力溢れる夏の景色のほうが好みであった。
「満開の桜は美しいが、散っていく様は命そのもの」
男がそう呟いたとき、遠目から二人の姿が視界に入った。男は先客を邪魔しないよう踵を返すと、時間を少し潰すことにした。
直人は用意した花を供え、線香を上げると、手を合わせた。幼い直人を女一人で育ててくれた母親には、感謝してもしきれない部分がある。もちろん恵子の兄や渡辺が協力してくれたからこそ可能であった部分が大きいが、それでも恵子は再婚もせず、独り身で過ごしたことに直人は胸を打たれるが、同時に複雑でもあった。
直人は最後まで凛とした姿勢を崩さず病に奮闘した恵子の姿を思い出すと、宗一郎の「恵子は気が強くて物静かな隆一と正反対だった」という言葉が浮かんだが、渡辺の「男女の関係であれば相反する方がうまくいく」という持論の方を支持した。
渡辺は恵子の墓から離れると「少し散策する」と云って姿を消した。一人になった直人は気を利かせた上司に心の中で感謝すると、手を動かし墓石の周りを掃除し始めた。墓石は汚れてはいないが、それでも手を動かすことで気休めになるからだ。
「信誠銀行の副頭取がこんなところで何を?」
遠くから近づいてくる声は、言葉とは裏腹に親しみが籠っている。
「ふふふ、妹の命日に来ちゃいけないのかい、叡治君」
品のよい笑いが男の口元からこぼれ落ちた。周りに人影はなく、木々に囲まれひっそりとした場所で恵子の兄、橘宗一郎は墓の前で手を合わせる甥の姿を見ていた。
「墓参りにそんなボンボンみたいな格好で……相変わらずだな宗一郎」
「叡治君も元気そうだね。直人君は君の下で頑張っているかい?」
「──育成中だ」
短く応えたが、宗一郎を正面から捉えると渡辺はそのまま続けた、
「万が一、俺が倒れても一人で知恵を絞って生きていけるよう育成中だ」
渡辺の眼が鋭く光った。
「叡治君に直人君を預けたのは正解だったって、──そう聞いてるよ」
二人は木々の向こうに見える青年を静かに見詰めた。そうして無言のまま暫く時間が流れると、気持ち良いそよ風が優しく吹き、青々と茂る葉桜が揺れた。
「僕の車に乗っていくかい?」
ふと、宗一郎が何気にそう尋ねたが、渡辺はすんなりと断った。
「直人君に会わせてくれないのかい? 正月以来会ってないんだよ!」
「直人を金融界に抱き込もうとするからだ。金融業なんてあいつの繊細な胃に穴が空く」
渡辺はそう云って宗一郎と別れると、恵子の墓へと来た道を戻っていった。
「じゃあ、これからも遠慮なく顧客を君の事務所に送るとするよ」
小さくなっていく渡辺の後ろ姿を見詰める宗一郎の眼差しには、温かみが滲んでいた。
墓石の掃除を終わらせ、一息ついたが渡辺はまだ戻ってこなかった。
直人はふと、山本一郎の残影についてもう一つの違和感があったことを思い出した。二週間前に夜中の病院に潜入し、山本一郎の遺体から死ぬ直前の残影を覗いた直人は、渡辺に報告しなかったことがある──。それは山本の残影が終る寸前、胸に焼けるような痛みが走ったことだ。
一酸化炭素中毒は間接的死因であり、実は心臓発作が直接的な死因だったのではないかと、後になって直人は考えた。
──アルコールと睡眠薬の効果が相乗的に強化され、心臓に一機に負担がかかったのが原因なのでは──
ただ、睡眠薬の影響で山本一郎の意識が低下していたため、それ以上胸部の痛みを感じることなく死者との共振から帰還した。
「そうなると有馬康弘に脅されたとはいえ、睡眠薬を盛った山本沙織も問題になってくる……」
──もし沙織が拘束される場合、お腹の中にいる赤ちゃんはどうなるのだろうか──
「自分は刑事ではない──」
直人はあくまで私立探偵であって警察ではないことを、自分に云い聞かせると小さく呟いた、
「真相なんか人の数だけ存在するんだ──」
──これが自分に与えられた特殊能力を駆使する代償であり、いつの日か解放される日が来るまで──
その時、どことなく気持ちのいいそよ風が音も立てず吹くと、直人の柔らかい髪を優しく撫でた。
──直人はよくやったよ、母親とその子供を守ったんだから──
直人の頬に涙がこぼれ落ちた。
恵子の誇らしげな声が風に乗って運ばれてくると、その風は優しく直人を包みこんだ。
(了)
▼ 主人公神崎直人が特殊能力を得る経緯の話です。