【メメント モリ】第5話 依頼人
「うわ! テラス付いてますよ! この部屋!」
直人は子供のような表情ではしゃいだ。ホテルというよりコテージに近い造りだが、自然に囲まれた宿泊施設は軽井沢を十分満喫でき、一泊だけなのが心惜しいぐらいである。直人はホテルの案内パンフレットに素早く目を通すと早速温泉を探した。
「露天風呂もあります!」
「ここの部屋をとってくれたのは山本氏の秘書だ」
渡辺は慣れた手つきで部屋を隅々までチェックし、ドアや窓、テラスの造りから非常口まで確認しながら答えた。
短時間でこれほど用意周到であることから、今回の軽井沢行きは前から計画されていたのではないかと直人は薄々感じ始めていた。全貌を知らされていないから確信はないが、山本一郎の死が渡辺上司の計画を早めたのではないかと推測する。
「渡辺さんは秘書の方と二か月前にお会いしたんですよね」
直人はさりげなく切り出した。
「そうだ。ウチの事務所を選んだのは俺が山本氏の大学の後輩だからだそうだ」
今朝の新幹線の中では詳しく応えてくれなかったのは、他の乗客の目があったからだろう。秘書に会う前にこの上司からもう少し情報を得る必要がある。調査対象から情報を聞き出すのではなく、己の上司からというのが滑稽だが、それでもそれが一番の近道だと知っている。直人はもう少し質問に踏み込んでみることにした。
「一か月前に山本氏が調査の中止を依頼した理由を聞いてますか?」
「気が変わったらしい。こっちも拍子抜けだったが、依頼人自らが中止を求めたから仕方ない」
山本一郎は有馬康弘という存在を知りながら、妻の調査を中止した。それは妻を何かから守るためだったのか、それとも世間の目を気にしたのだろうか──。
「こちらが察したのは、山本一郎の中で何かが起きたということだ。妻の浮気も清算させるほどの何かが」
そう応えると、渡辺はネクタイを外した。
直人は考えた──、なぜ渡辺上司は調査を再開したのだろうか? 依頼人は死去したのだから契約相手はもういない。新たな依頼人でも現れない限りは──。
「誰と新たに契約したんですか?」
答えはそれしかなかった。新たな依頼人との契約である。
「そろそろ行くぞ、依頼人との約束の時間に遅れる」
渡辺は声を立てずに笑うと、ワイシャツの第一ボタンを外した。
今夜七時に面会の約束をしているのは山本一郎の秘書だ。ならば渡辺は、山本一郎から契約破棄を受けた後、今度は秘書に契約を持ち掛けられたことになる。
直人は腕に巻いた時計が、六時半を指しているのを確かめると、渡辺と共に部屋を後にした。
レンガ造りの建物の中に、依頼人が指定したレストランはあった。
約束の時間前に着いた直人と渡辺は落ち着いた空間を通り抜け、テラスへと案内された。テラスに数卓のテーブルしか置かれていないこの場所は、夕食を楽しみながらプライベートな会話をするには最適な環境である。
テーブルに案内されると渡辺は正面から客を観察できる席に着いた。直人は常日頃「出口に背を向けて座るな」と耳に胼胝ができるほど聞かされているので東の席に座った。テラスへの出入口は一つしかないから、これで依頼人が入ってくるのを捉えることができる。
しばらくすると、依頼人がテラスに現れた。
「ご多忙の中をよくお越しくださいました」
そう云って軽く一礼すると、依頼人は渡辺の正面に座った。依頼人の名は後藤という。渡辺は部下である直人を紹介すると、
「私の部下には契約内容を開示してませんので、後藤さんの口から彼に直接説明していただけると助かります」
丁寧な口調で後藤に説明を求めた。
「もちろんです。渡辺さんの〝ご友人〟の甥御さんなのでしたら問題ありません」
後藤は渡辺と契約した旨を明かし始めた。
「まず、山本さんが遺言書の改訂を弁護士に依頼したのは、奥様の浮気疑惑が発覚したからです」
「それが二か月前ですね」
直人は確かめるような口調で聞いた。
「そうです。そこで渡辺さんの事務所を利用しました。調査の結果、相手は有馬康弘という男性でした」
「学生時代の恋人だったと聞きました」
直人が胸中を読み取るように云うと、後藤は押し黙った。そして少しの沈黙の後、
「浮気が発覚した理由をご存じですか?」
今度は逆に後藤が直人に聞くと、何かを決心したように口を開いた。
「二か月前に奥様は産婦人科を受診しました……妊娠していたのです」
「ええっ、お腹に赤ちゃんがいるんですか?」
直人は思わず声のトーンが上がったが、渡辺は無言のままだった。
後藤は静かに頷くと、
「──山本さんは子宝が授かれません」
と云い、最初の妻との離婚の原因が不妊であったことを明かした。
「山本さんは奥様の妊娠を知ったとき、打ち砕かれたようでした。──もちろん離婚を突きつけることもできたでしょう。ですが黙秘しました。奥様からの説明を待っていたのでしょう。ですから奥様は山本さんが妊娠の事実を知っていたということを知らないと思います」
「それで調査の結果……有馬康弘という男が父親なのですね……」
直人が苦々しく云いかけると、渡辺がようやく口を開いた。
「夫人と有馬という男が何度か口論している現場を平岡が報告している。だが一番派手に争ったのは一か月前だ。以来、二人は会っていない」
「はい、それで最終的に山本さんは奥様を一度だけ許すことに決めたのです。有馬康弘は離婚訴訟中で生活が不安定です。奥様が〝藤本沙織〟に戻ったとしても、そんな男と平和に暮らせるはずがありません。これから生まれてくる子も悲惨でしょう……もちろん中絶するという道もありますが……奥様は悩んだ末、産むと決めたようです。ですから山本さんは正直に打ち明けてほしかったのです。奥様に子供を授けられない山本さんが、浮気相手との間の子とはいえ、授かった子をおろせなど……そんなこと云うはずがないのです──」
しばらくの間、沈黙した空気が流れたが、直人は感情に押し流されないよう状況を時系列に整理することにした。
二か月以上前 山本は妻の浮気を疑い始めた
二か月前 妻の妊娠が発覚する
渡辺事務所に妻の浮気相手の調査を依頼
浮気相手は有馬康弘と判明
一か月前 妻と有馬は喧嘩別れする
山本の調査依頼の中止
メモ 妊娠が発覚していることを妻は知らない
山本一郎という男の包容力は凄まじいものだった。一度失った信用を修復するのは難しい。しかも不倫どころか子まで孕んだとなれば普通は許さないだろう──、泥沼化だ。だが山本一郎は夫人にチャンスを与えると云った。しかも宿した子も含めすべて受け入れるというのだ。直人が言葉を失っていると、渡辺が後藤に尋ねた。
「山本さんは睡眠薬を服用するのですか?」
「ええ、このことで神経をすり減らしましたから、医師から薬を処方されています」
「捜査一課の報告によると、割と即効性のある睡眠薬が検出されたようです。今日の午後、夫人と面談したときに渡辺さんが睡眠薬の件について尋ねましたが、夫人はあの夜、山本さんが服用したかわからないと云っていました。もし山本さんが服用したのであれば、睡眠前に薬を飲むはずで──、書斎で本を読みながら服用しないと思います。そうなると夜の九時ごろ、ブランデーに混ぜて夫人が書斎にいた山本さんに渡した可能性が──」
直人ははっとして口を噤んだ。山本一郎が書斎でブランデーを飲んでいたことは残影を覗いたから云えることで、捜査一課の報告書には上がっていなかった情報である。この特殊能力を他人に感づかれては危険だ──、それはいつも渡辺が口酸っぱく直人に忠告していることである。政府にでも知られれば、それこそ人体実験にされるだろうと──。
渡辺は押し黙った部下から何かを感じ取ったのか、直人の代わりに話を続けてくれた。
「夫人が山本さんを書斎で見つけたのは夜中の一時頃だそうだ。四時間ほど開いている。書斎はそんなに大きくないから排気口が閉まっていれば、眠らされている間に一酸化炭素中毒になって苦しまずに死ねるだろう」
直人は横に座っている渡辺に視線を向け、
「四時間あればできますね」
と相槌を打った。
「ああ、ただ夫人が夜中に起きたというのがミソだ。もし彼女に動機があって犯行に関与したのなら朝まで書斎に入らなければいい。書斎は離れにあるから母屋まで一酸化炭素は充満しない。だが、夫人は夜中に目が覚めて書斎に入った」
「では〝有馬康弘〟という男を調査できますか? 私としては山本さんの遺言書開封の前に事実を確かめたいのです」
後藤は正面に座っている渡辺に聞いた。
「今、東京の事務所に連絡を入れます。やってみましょう。それから山本さんが夫人の妊娠の事実を受け入れようとしたことを彼女に話すべきかと思いますが」
渡辺は携帯を手に取ると、東京にいる幸恵にメッセージを送った。
「その件につきましては、私が遺書を預かっています。それで私は来週東京に戻りますので、奥様の弁護士の方と遺言書の開封の準備を進めます。そこで無理を承知でお願いしたいのですが……開封の際に渡辺さんにも立会人としてご出席いただけないでしょうか?」
「──わかりました、引き受けさせていただきます。後日詳細を事務所の方にお送りください」
明るい光に照らされていた遠くの山々が影を落とし、夜の静けさが近づいているのを直人は肌で感じた。三人はビジネスの話を止め、運ばれて来る食事を楽しんだ。時折、風に乗って夕方の涼しさを肌で感じると、心地よい時間が流れていった。
沙織はふと目が覚めた。どうやらそのまま居間で眠りに落ちてしまったようである。沙織はゆっくりと起き上がると、あたりはすっかり闇に包まれてしまっていた。妊娠初期症状は個人差があるものの、沙織の場合は逆らえない程の眠気に襲われる。沙織は居間を後にするとキッチンへと向かった。
先ほどまで居間の窓からは、幻想的なオレンジ色の光が差し込んでいたが、今は打って変わって漆黒が映し出されている。その不気味なほどの静寂さは、まるで黄泉の国への入口のようであった。