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思春期に教室で男子からトイレットペーパーをカラカラした話

とっさの判断は、難しい。

人とのコミュニケーションで、「あの話をする前にこの話をした方が早いだろう」と思考になるより前の段階で瞬時に判断して、実際にその通りに口が動く。結果として、話がスムーズに伝わる。これは機転が利いたと言ってよさそうだ。

居酒屋でアルバイトをしていたことがある。お客さんの仕草から灰皿をもう一つ欲しがっているように感じて、呼ばれる前にササっと持っていく。喜んでくれる。役に立ったようだ。

何かを感じ取り、思考になるより前にとっさの判断にゆだねて身体が動く。たいていは、物事をスムーズに流れる。自然の摂理だろうか。結果オーライということが多い。

高校時代のある日、私は美術の授業を受けていた。絵の具か何かを使った授業だったのだろう。筆先を拭うためか、美術室内の何か所かに、トイレットペーパーが置いてあった。私は真面目な生徒であったので、その日も一生懸命に授業に臨んでいた。

黙々と作業していると、トイレットペーパーが必要になった。真面目に取り組んでいる成果である。キョロキョロと周りを見渡すが、近くにない。すると、それに気が付いた近くの野球部男子が、トイレットペーパーを差し出してくれた。気が利く男子よ、ありがとう。

しかし彼は、ただの気が利く男子ではなかった。両手の人差し指でトイレットペーパーホルダーを作り、私に差しだしたのだ。もじもじする時に、人差し指同士を合わせるような仕草を想像していただけるだろうか。あの指と指の間にトイレットペーパーの芯を通すと、トイレットペーパーホルダーになる。隣のクラスとの合同授業であり、彼は隣のクラスの生徒であったため、私は彼の性格をあまり知らない。人間トイレットペーパーホルダーは、野球部では一般的なのだろうか。今となってはわからない。

ところが、もっとわからないのは、それを受け取る際の私のとっさの行動である。「ありがとう」と両手でトイレットペーパーごと受け取れば良いものを、私はご丁寧にも、人間トイレットペーパーホルダーとなった彼から、トイレットペーパーをカラカラと引き出した。お手洗いで便器に腰掛けながら、皆さんがする、あのカラカラである。

目の前に垂れ下がったトイレットペーパーを見ると、人はカラカラと引き出したくなるようプログラムされてしまったのだろうか。カラカラしてから、いやいや、これは普通に受け取るべきところだったのでは?と気が付くも、後の祭りだ。うら若き乙女の時代に、クラスメイトの前で、男子生徒からトイレットペーパーをカラカラする女子高生は、なかなかいないだろう。貴重な体験である。

あの時の私の細胞は瞬時に、ここまでお膳立てされた状況でトイレットペーパーを丸ごともらうよりも、ペーパーのみをカラカラと引き出した方が良いと判断したようだ。
私には、お笑い芸人を志す細胞が何割か潜んでいるのだろうか。なぜ私がとっさにこのような行動を取ったのか。わからないが、これはネタになるのでは、と思い出し、こうして人様に話して聞かせようとしているところからすれば、やはり私の細胞の何パーセントかは、まだお笑いの道をあきらめていないのかもしれない。

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