ピンク色の雲
17時30分、学校の正門を出た。
少し右に目をやる。オレンジジュースをこぼしたような空だ。
久しぶりにゆっくりと景色を見た気がした。
レンガ造りの坂道を下る。
道の脇には、商店街時代の名残であるらしい、スズラン型のランプが立っている。夜になると、これらが一斉に光り、坂の上から見るとスズランが咲き誇っているようで美しい。部活動生だった時は、暗くなった帰り道、この景色を見て癒されていた。私が一番好きな景色だ。
今日の昼休み、暇だったので図書室へ行った。
ドアの前に立ち、違和感を覚える。図書室は土足禁止なので、上靴を脱いで入らなくてはならない。その下駄箱が、今日は靴一足もない。普段は1年生のたまり場になっているはずの場所が、今日はがらんとしている。
上靴を脱ぎ、「失礼します」とドアを開ける。「あら、こんにちは」仲良しな図書室の先生が出迎えてくれた。
「今日、空いてますね」入り口付近に設けてある「バレンタインコーナー」に置かれた本を眺めながら尋ねる。チョコ菓子のレシピを借りたところで作れる気がしない。
先生は「今日、1年生は合唱コンクールのリハーサルがあるからねぇ」と教えてくれた。図書室の内窓から廊下を見やると、1年生が慌ただしく教室へ戻っていくのが見える。
図書室を独り占めできるのは今日くらいしかチャンスが無いだろう。思いっきり楽しんでやろう。
普段は自己啓発本のコーナーに足を動かすところだが、少し違ったジャンル…小説を読んでみたいと思った。
小説コーナーの本棚は低い。布製でフカフカな床に腰を下ろし、足を贅沢に伸ばす。
正面にピンクの背表紙を捉えた。
「ソードアート・オンライン」通称SAO。
そういえば、好きなアイドルが「おすすめ」って言ってた気がする。友達も読んでいたし、ちょっと興味があるな。
手にとって、ページをめくる。
・・・
20分以上あった昼休みが、残り5分…！？
窓の外では、一年生が列を成して体育館へ移動している。
「先生、これ借ります！」急いでカウンターへ行った。
図書室の先生から「これおすすめよ」と言われて、＋1冊借りたのは別のお話。
「さようならー」
放課後、最近はすぐに帰っているのだが…
今日はSAOを集中して読みたかったので、教室に残った。
SAO、想像以上に面白い。今まで読んでこなかったことを後悔した。
主人公がめちゃかっこいい。ヒロインとの関係性が尊い。最高だ。
気づくと、半分以上読んでいた。
放課後にしたことは読書だけではない。
私の担任の先生は、受験に対してとても熱心だ。
3年生全クラスの中で唯一、放課後に教室を自習用に開放している。
今日は珍しく他クラスの友達が自習に来ていた。
彼とは中1の時だけ同じクラスで、それっきり話していなかったので、久しぶりだった。
「ほしうみちゃん、ちょっといい？」
仲良しな国語の先生：彼の担任が、読書中の私に話しかけてきた。
どうやら彼は勉強に苦戦しているらしい。今、分数の足し算引き算をしているのだが、つまづいている。教えてくれないだろうか…そういう依頼だった。
特に断る理由も無かったので二つ返事で請け負った。
冬休み期間中、小5の弟の家庭教師をした経験が、ここで役立つとは思っていなかった。
図を書いて「ここ分かる？」と尋ねながら教えていく。
彼が「あ、そっか！」と言ってくれた時、心が温まった。最上級にプラスな感情が心に灯った。
教室が閉まるまでに、彼は分数の足し算引き算を理解することができていた。私もそのことに貢献したと思うと、嬉しくなった。
人に教えることは、自分にとっても得である―この言葉はきっと間違っていない。
最近、誰かのためにここまで尽くしたことはあっただろうか…
通学路を一人歩きながらぼんやり考える。
ここ数日、心の焦りや目に見えない忙しさとかで疲れていた。今日は久しぶりに心がほわっとした気がする。
パステルカラーの雲が浮かんでいる。
あの人とこの空を共有したい―
心に余裕が生まれたからか、ふと、大好きな人の顔を思い浮かべる。
この感情もあの雲と同じ、ピンク色。
「卒業しても、また会いたいですね」そう伝えたい衝動が湧いてきた。
SAOを読んだこと、放課後の幸せ、美しい景色…心をピンクで染めるには最高の条件が揃った今、そんなことを考えずにはいられない。
でもきっと、明日の朝になれば「馬鹿らしいことだったな」と思うのだろう。「言わなくてよかったな」と感じるだろう、多分。
もしそう思わなかったら…「伝えたいな」とまだ思っていたら…
その時は、ちょっと冗談めかして伝えてみようかな。
目の前の背が高いスズランに、光が灯った。
今の私の心も、きっと同じような姿をしているんだろうな。
今日は、いい日だった。
ここまで読んでいただきありがとうございました！