C105新刊(依頼)「雨上がりに見た幻」後語り
ご挨拶と経緯
数日ぶりです。アフリカの星逆です。
今回は、前回記事で取り上げた拙作「ハーフステップ、ピースサイン。」と同時に、blewさんからの依頼で手がけさせていただいた小説本である
「雨上がりに見た幻」について、後語りをしたいと思います。
発端
まぁ、依頼といっても書きたい物を書きたいようにやらせてもらった形なので、正直なところ「むしろ、絵を描いてもらえる上に本にしてもらっていいんだろうか」と少し引け目を感じるほど恵まれた環境で執筆をさせていただきました。
話を持ちかけられたのは7月下旬。ちょうど、アビドス3章の興奮冷めやらぬ中、頭の中で無限に小鳥遊ホシノが動き回っていた頃です。
ある日、Discordでblewさんから「どうしても見たい場面があって、誰かを守る盾の暗喩として「濡れないようにその人を雨から守る傘」をテーマに小説を書いてもらいたい」とDMが来ました。
blewさんとはもうかれこれ10年来の付き合いなんですが、いつもこちらからイラストをお願いする形でした。
逆に、テキスト側に発注があったことは素直に嬉しく、僕の書く文章と腕を信用してもらえるのは非常に有難いことです。
しかも、内容はちょうど旬だったホシノとシロコ*テラーを主役にした、戦闘シーンを詰め込んだ短編という指定だったので、こちらとしてはもう前のめりで「ぜひぜひ!」と二つ返事で了承したのを覚えています。
実は、この話をもらうずっと前から、「雨上がりに見た幻」の表紙のプロト構図はすでに教えてもらっていました。
その時は、まさか、それを元に話を書くことになるとは思っていませんでしたが、どういう意図でキャラクターや風景を配置しているのか、またタイトルにもなっているイメージソングについては聞いていたので、プロット自体はすんなり立てられたと思います。
話をもらった日の内に、6時間くらいで全体の話の流れと見せ場になるようなシーンの台詞アイデアをまとめて、それをblewさんにチェックしてもらって幾らかの修正を加え、数日を掛けてブラッシュアップしていくような形で組み立てを行いました。
当時、アビドス3章が終わった直後ということもあって僕もblewさんもモチベーションがえらいことになっており、依頼されたものを書くというよりも、お互いの解釈を並べて殴り合うような形で製作を進めていました。
特に覚えているのは、こちらから「ホシノは無意識のうちに先輩らしさの象徴としてクジラになろうとはしているが、自分をクジラだとは思ってはいない。であれば、二人が見上げた雲には自分ではなくお互いを象徴するもの(ホシノの象徴であるクジラと、シロコの象徴であるイルカ)を見出すのはどうか」という提案をして、blewさんのほうでも「雲の形は古則と同じく、お互いにとっての相関的な真実である」ということを示したいとの意向で、イラストが表紙と裏表紙で対になるようになったということがありました。
他にも、「ゲーム本編での手帳の在処のことを考えると、表紙の水溜まりに映るユメの手に手帳を持たせるべきかどうか」という内容で議論を重ね、「ホシノの未練である手帳を引き取り消えていくという意味合いで手帳を持たせるのはありかもしれない。しかし、そもそも手帳自体には何の力もなくて、本質はその手帳の持ち主と共にいたホシノの中にあるもの。そうなってくると、ホシノが3章後に手帳を追い求めなくなっている時点で、アイテムとして出すべきではないのでは」という結論に至ったりと、様々なやり取りは今でも記憶に新しいです。
こちらからの提案や、向こうからの発案がほぼ毎日のやり取りで交わされ、徐々に練られた解釈がプロットに反映されました。
面白かったのが、お互いの意見に対して、「確かにその視点はなかった」となることはあっても、「いや、それはちょっと違うんじゃないか」となることが皆無だったということですね。
基本的に、キャラクターの解釈については僕もblewさんも原作から明確な根拠を持って説明できる状態で殴り合っていたので、非常に話を進めやすかったです。
特に、前回の拙作の後語りでも書きましたが、「梔子ユメは小鳥遊ホシノにとっての祝福であると同時に呪いである」というこちらの解釈で、先生の言葉によって一種の解呪をするという話を入れることを許可してもらえたのは、依頼を受けた立場で随分思い切った内容を入れさせてもらったなぁと思っています。
Track 1 : Don't Look Back In Anger.
前置きが長くなりましたが、ここからは各章について取り上げていきます。
まずは第一章から。こちらの章題はOASYSの名曲からで、blewさんから指定があったものでした。
「思い出を怒りに変えないで」と、本編で「当時の私は、何もかもに憤りを感じててさ」と語っていたホシノに対する直球のメッセージとなっています。
アビドスを守るための手段は暴力であるべきではないと説くユメの考えを正しいと思いながらも、ホシノは今でも怒りの感情と暴力の象徴である銃を手放せないでいる。
かつて、ユメと出会った時と同じ状況を前にして、選んだのもまったく同じ選択肢。ユメが見ていた理想に対して、ホシノは常に現実を直視し続けていたからこそ、身体が咄嗟に動いてしまう。
そんな他者と自己の軋轢という問題は、アビドス三章を終えて解決したものとはまた別で、ホシノの中に燻り続けているのではないか。
それが、この物語の始まりでした。
まだまだアビドスには問題が山積していて、全てがあっという間に解決するような魔法はない。その中で、現実主義者であり悲観主義者でもあるホシノが抱えたものとどう向き合うか。そういったことを詰め込んだ章です。
冒頭のチンピラに絡まれている中学生の描写は、blewさんの「アビドスの生徒達は、先輩達の特徴を受け継いで因果がループしている」というアイデアから、かつてユメが絡まれていた時と同じシチュエーションとなりました。
最初はもう少しマイルドだったんですが、blewさんからの提案でカイザーの残党をかなりきつめの悪人として描いています。
なお、このシーンで絡まれていた中学生は、拙作の方でアビドスに入学した姿を書かせていただきました。緩やかな繋がりですが、両方読んでくださった方に向けた小ネタという感じです。
テキスト担当が個人的に気に入っている部分としては、“おじさん”と“暁のホルス”が瞬時に切り替わるホシノの言動です。
飄々としたキャラが垣間見せる本気が好きなオタクなので……
Track 2 : Wind / BACKLIT
章題は、AkeboshiのWindとmol-74のBACKLIT
Windは、先生からホシノに向けた言葉をイメージして設定しました。
「そんなに賢く生きようとしないでいいんだよ。大丈夫だから泣かないで。恐怖や嘘に負けないで。じゃないと、君が君自身を嫌いになってしまうよ」というサビの部分が、いかにもゲーム本編の先生らしい言い回しだなと。
以前の記事でも書きましたが、ユメとホシノは性格や外見、色に至るまで対極になるように設計されているところから、僕は「小鳥遊ホシノというキャラクターの人格では、梔子ユメの理想主義をそのまま実行しようとすれば必ず無理が生じて自壊する」と考えています。
そのため、アビドス三章で幻とはいえユメと対話を経た先生は、その理想主義を否定はしないけれど、悲観主義でリアリストなホシノがそれをなぞることで無理をしないような導き方をするんじゃないかなぁと思い、あのような諭し方になりました。
「無理をしてユメを辿ろうとする必要は無い。ホシノはホシノでいい」「もう、アビドスを一人で守ろうとしなくて大丈夫。胸にあるものを誰かに預けてもいい」「少なくとも、私は君を守りたい」
そして何より、彼女の中にある怒りに対して、“正義感”という別の名前をつけることで、感情に振り回される過去の因縁を“ヒーロー”という在り方に再定義し、小鳥遊ホシノが自分を肯定できるようになる第一歩になれば。
そういう会話は、臨戦ホシノのモモトークを読んでいた時に頭の片隅に芽生えたものでした。
また、ホシノの抱いていた憤りは、エデン条約で先生がベアトリーチェに垣間見せた怒りの感情に通ずるものがあるのではと考え、同じ視点で語れる先達としての言葉も併せて書きたかった部分です。
そして、「ユメの理想も、ホシノの力も、問題を解決するための手段の一つであって唯一ではない」ということ。ホシノの中で神格化されかけていたユメについて、先生を通して「自分と同じで、思い通りにならないことに悩んだりしていたのかもしれない」とフラットに向き合うきっかけを得て欲しいと考えていました。
そうした問答の後、ホシノは去りゆく先生から傘を受け取ります。
この傘は、先生の庇護の象徴であり、盾を手に常に誰より前に立とうとするホシノを守りたいという先生の願いでもあります。
ホシノはそれを理解していながら、それでも先生に寄りかかることを選べない。差し出されたものに手を伸ばせないでいる彼女を見咎めたのは、行方をくらませていたもう一人の後輩でした。
BACKLITは、シロコ*テラーから見たアビドス廃校対策委員会をイメージして設定した曲です。
あの頃に語り合った通りの
鮮やかな僕たちはいなくて
誰ももう此処に戻れなくて
誰ももう此処に帰れなくて
かつて喪った風景に彼女達を重ねて、自分が触れることでまた消えてしまうかもしれない幸福を遠目に見つめているような。
あのシロコの心情が克明に描写されたのは最終章でのことでしたが、「たった一つの居場所」としていたアビドスの全てを亡くし、先生まで自分を庇って異形に成り果てた経緯を思うと、今のアビドス対策委員会の前に現れようとしなかったのも納得です。
そんな彼女も、目の前で先生の願いに向き合おうとしないホシノには物申さずにはいられなかった。
そして何より、アビドス三章のラストでお互いの重荷を下ろした今、自分は憧れだった先輩にどこまで近づけるのか知りたい。
blewさんから最初に依頼があったのもこの部分で、こちらとしても「姿形は変わっても、やはり根底は勝負を挑む砂狼シロコであってほしい」という思いで書かせていただきました。
そこからの戦闘シーンは「高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に」書きました。
もちろん、山場や見せ場として挿絵がチェックポイントとして存在するので、そういう部分は盛り込むのですが……昔から、アクションに関しては出たとこ勝負で手が動くままに任せています。
その方が勢いとスピード感がある構成にしやすいのと、咄嗟の判断という部分でキャラクターの動きに納得感が出せるというところで、こういう手法が好きなんですよね。
とはいえ、その中でも意識したことはあって、それは「可能な限りゲーム内の挙動を文章で再現する」という部分でした。
特に、ホシノとシロコの選んだ戦術が各種スキルになっていたり、ボディアーマーに関してもプレートが防げる弾数を再現したり、挿絵にもなった成形炸薬弾は実際にゲーム内で発砲しているものだったり、色々やっています。
当初の予定では、ホシノとシロコはもう少し対等になる形でした。
しかし、あの三章を読んだ後だと、他のキヴォトス最強格が持つ不思議パワー由来の強さとは毛色が違う、“暁のホルス”の常軌を逸した力量に対してシロコがどう立ち向かうかという、チャンピオンとチャレンジャーというような関係になりました。
振り返ってみれば、それによって昔から勝負を挑み続けてきたシロコとの繋がりが今なお変わっていないという形に落ち着けたので、なるべくしてなった形かなと思います。
書いている側としては、ホシノの強さに隙がないという部分で、シロコの転移能力をどう使うかで頭を悩ませました。あのあたりの書き方は、銃撃戦がメインのブルーアーカイブという作品の二次創作としてはあまりない、異能力バトルの文脈ですね。
能力の制約と応用できる範囲のルールを定めながら、意表を突くにはどうすればいいか。考えるのは好きなのですが、ここまでガッツリ書いたのは久々なのでとても楽しかったです。
Track 3 : すべてがそこにありますように。/Sign
章題はTHE SPELLBOUNDのすべてがそこにありますように。と、FLOWのSignです。
この曲は前述の通り、執筆依頼の前からblewさんに「ファンアート賞で銀賞を獲得したあの絵のイメージソング」として、イラストにちりばめられた要素の意味と併せて教えられていたものです。
元々の初期プロットは「あくまでも原作の要素で構築する」という方針で、あのファンアートがオリジナルである以上は匂わせ程度に留めるという形だったのですが、「やっぱり、思い入れもあるし読みたいよね」ということで組み込む形になりました。
おかげで、あの生放送で多くのファンが目の当たりにしたであろうイラストをテキストに起こすという、非常にプレッシャーの掛かる大役を任されることにはなりましたが……それを「お前ならできる」と思ってもらえるのはとても有難いことで、それだけやりがいがあって書くのが楽しい場面でもありました。
特に花畑の場面は、普段とは違う文体で、あまり使わない心情メインの綺麗な文章を意識しています。
あの圧倒的だったイラストに、少しでも並べているとよいのですが。
ああ 消えていく 私の祈りも
導かれていく一つの場所
無限に絡まる無数の糸
ああ 忘れないで 私の終わりを
ほどけないようにきつく結んだ
君が一番欲しかったもの
THE SPELLBOUNDのインタビュー記事で「この曲はラブソングでありレクイエム」という話を読んで、この場面にとても似合っていると感じたことを覚えています。
最終章当時、あのシロコの精神状態は自己嫌悪が希死念慮に届く有様だったこともあり、彼女の深い絶望と、そんな生徒に先生から贈る祈りと愛情、そしてブルーアーカイブで明確に死が描かれた数少ないキャラクターであるプレナパテスを送る鎮魂歌が流れる場面として、救いと別れが両立するように心を砕いたシーンでした。
心を砕きつつも、プロット自体は方向転換から一時間ちょっとで作り、本文もかなり早く書き終わったので、筆自体はめちゃくちゃ乗っています。
そのあたり、事前に場面での感情の動きについてしっかりヒアリングができたおかげかなと思います。
なお、この本のきっかけとなった絵を描いているblewさんからの解説もありますので、以下に記載します。
~blewさんからのコメント~
そもそも自分がこの曲を選んだのは、アビドス編3章を読み終えてしばらく経った頃、「そういえば今、元ブンサテ(BOOM BOOM SATELLITES)の中島さんは何をやってるんだろう」と、最近の活動を追ったことがキッカケでした。
すると、今はブンサテのサポートドラムも携え、ブンサテを最も理解していると中野さんが評する小林裕介氏をボーカルに迎え、新たにTHE SPELLBOUNDというバンドを結成している。しかも、つい最近に新曲をリリースしたばかりじゃないか!と。
その曲が本来ゴールデンカムイのEDのタイアップ曲だったとはいえ、ラブソングでもありレクイエムでもあるというインタビュー諸々を読んで、ブルアカ3周年記念アートの概要とテーマに対して、なんて相応しいのだろう……と、あの絵が完成するまで何回も何回もヘビロテし続けていました。
当初、原作要素のみで構成する要望にしていたのも、ブルアカ公式から銀賞を授かったとはいえ、ファンアートである以上は本編にはない要素であり、入れるべきではないんじゃないかと一歩引いたことが理由でした。
ただ、最終編の苦難を経て、
先生が、シロコを今の世界へ導いてくれた意味を再確認するために必要な工程。
ホシノがあの時巻いてあげたマフラーと同じように、再び切実な想いが託される瞬間。
シロコがかつて先生に向けた銃のスチルと対比して、そこでなにもかも反転することで彼女に救いがもたらされ、感情曲線がピークになる。
そういう過程を経るためのエッセンスを欠いては、このカタルシスは大きくならないと思いました。
そして、アビドス編3章本編中のシロコが、引きずっていた皆の亡骸へ別れを告げる場面等々、やはりまだどこか悲しい顔ばかりで、どうしても寂しく感じてしまったのが自分の中で尾を引いていました。
このカタルシスが生まれる瞬間、シロコがひとつの曇りの無い笑顔を見せる瞬間を、そして喜びの涙で心を満たして救済される瞬間を描きたいという気持ちが後から大きくなっていき、悩みながらも「やはりこのシーンは入れよう」「ここは身勝手であろうと、あの絵の要素を全部拾ってもらおう!」と決断しました。
後々聞いたら、星逆さんは「やっぱりそうなると思ってました」と予想していたみたいです。
2曲目のSignは、成形炸薬弾で一度は倒されたシロコが、ホシノにもう一度感情を伝えるために再起するイメージで設定した曲です。
伝えに来たよ 傷跡を辿って
世界に押しつぶされてしまう前に
覚えてるかな 涙の空を
あの痛みが君の事を守ってくれた
その痛みがいつも君を守ってるんだ
明るい曲調に反して、痛みを抱えることとその意味を歌った歌詞は、「反撃開始」という盛り上がりと、「ユメの手帳とプレナパテスの花束」という、非有の真実に痛みすら感じていた二人の対話に重なるようで。
同じものを抱えていたからこそ、シロコはホシノに譲れないものがあり、ありったけをぶつけることを選んだ。
シロコの最後の一手がホシノに届いたのは、その思いの差です。
傷つけたくない一心で戦っていたホシノに対し、シロコは傷つき傷つけることで自分の願いを伝えようとした。そのために、我が身を囮にすることすらもためらわず。
たとえテラーであっても、やはり直情的で誰よりも優しい砂狼シロコであって欲しい。そういう願いを込めたシーンでした。
Track 4 : 雨上がりに見た幻
章題はthe pillowsの雨上がりに見た幻。
踏み外した崖っ淵でも
手を掴んでくれた
雨上がりに見た幻を
今でも覚えてる
足跡のない道を選んで
ずいぶん歩いたな
荒野の果て 何処かにきっと
足跡残ってる
それだけが それだけが
それだけが 生きた証
それだけが それだけが
それだけが 僕らの誇り
この曲を歌っているthe pillowsはかなり苦労をしているバンドで、歌詞に込められたものも決して明るい感情ばかりではありません。
それでも、blewさんからの熱い要望もあり、どこか決意と希望を匂わせるメロディーをくみ取って、あえてポジティブに解釈してラストシーンに繋げるような形でイメージを膨らませました。
そもそも、タイトルの通りこの本全編を象徴する一曲でもあり、執筆中はヘビロテしながら自分に歌詞を刷り込み続け、最終章では内容が沿うように文章を少しずつ積み上げていくような形でラストを書き上げました。
アビドス三章では、過去を追う物語として“足跡”という言葉が取り上げられています。
また、過去に囚われた存在として、ホシノとシロコ*テラーという二人が同じ視座を持つキャラクターとしてフィーチャーされていました。
ホシノが喪主を務めるユメの葬儀であり、シロコ*テラーが執り行った仲間達の埋葬でもあったアビドス三章。
全てを終えた今、彼女達の前にあるのは足跡のない道であり、手を掴んでくれる人達がいる。
それは、ホシノにとってもう一人のシロコであり、アビドスの後輩達であり、先生であり。
シロコに手を差し伸べているのも、ホシノであり、アビドスの後輩達であり、先生、そしてプレナパテスだった。
向けられた思いに二人が気付き、いつか笑顔で応えることができたなら。
そういう願いを込めて、この物語を結びました。
今回の本には、自分なりの裏テーマとして“呪いからの解放”というものがありました。
それは、ホシノにとっての「先輩らしさの象徴であるユメの在り方」であり、シロコにとっての「自分が対策委員会を死に追いやり、先生を貶め、世界を滅ぼしたという自責の念」であり。
そういったものに対して提示したかったアンサーとして、
「息を止めて泳ぎ続ける必要は、もうない。
独り回遊を強いられることも、もうない。」
という、クジラとイルカが生来抱えている辛さを、これからは抱かなくていいという部分だったりします。
一方で、ホシノがユメの背中を追って必死に先輩たろうとしていたのが、シロコの視点では最初からずっとホシノを目指すべき先輩として追っていたり。
シロコ*テラーがこの世界のシロコの場所を奪ってしまうことに怯えていたのが、ホシノ視点ではそもそもシロコにはシロコの居場所を用意するつもりでいたり。
前回記事でも書いた「視野狭窄が元で起こる思春期の悩みは、見方次第で容易に解決することもある」という解法を、二人に提示したい気持ちもありました。
ちなみに、こちらもblewさんからの解説もありますので、以下に記載します。
~blewさんからのコメント~
一章で言及があった「アビドスの生徒達は、先輩達の特徴を受け継いで因果がループしている」という部分について。
このループというのはあくまで一側面であり、別の見方をすれば受け継がれる精神なのではないかと最近思っています。
というのも、本編で触れられている古則に共通して、「それそのもの自体に善/悪、正しい/間違いもなく、命題自体にはただその本質だけがあり、それを受けた者の受け取り方や状況次第でどちらにもなり得る」というものがあります。
これは個人的な話ですが、ここ数年、ブルアカをプレイする以前から、あらゆる映画や創作物を見ている際に見出していた共通項として、
たとえば、火というものが人にとって文明の発展を促し、あらゆる道具を生み出す利器として機能することもあれば、時には制御の効かない大火となって、あらゆるものを焼き尽くしたり生命や文化的遺産を損失させる凶器としても機能する、ということを考えることが多くなりました。
これは火によらずあらゆる道具、または精神的概念においても共通していて、巡り巡ってこれは正義と悪も一側面の見方にも繋がります。
力には本質だけがあり、それを正義と見るか悪と見るかも、対立している両陣営からの側面の見方でしかない、という哲学に行き当たりました。
話を戻して、彼女たちの容姿から性格に至るまでの因果のループというのは、悪く見れば彼女たちの命運は見えない何かの因果で縛りつけられ、堂々巡りを繰り返して朽ち果てていく運命を辿っていくように見えます。
しかし、それは彼女たちの努力と抗う意思次第で、その因果を断ち切って次の未来へ、ユメとホシノの悲願だった人で賑わう輝かしいアビドスに繋がる一歩を踏み出すための継承とも取れるのではないか、という観点に行き着きました。
題名に「雨上がりの幻」を選んだのは、2番の歌詞にある
『すべてが変わるかもしれない 雲の糸をよじ登って認めあった僕らは 時代も背景もそぐわない遺物なんだと思い知った 抜け出した壁画の夢』
という歌詞を基に、最終編やアビドス3章の苦難を乗り越えて手を取り合った二人が、ここが型にはめられた運命の果て、デッドエンドだと思っていた先にある未来へ一歩大きな足跡を残すこと、そして、この世界に残された意味と大切な人から託された意思を勝負の果てに見出し、雨上がりの幻の後に祝福を受けるというラストにしたいという強い意思によるものでした。
おわりに
シナリオの時期としては、セト戦の決着からエピローグでビナーと戦うまでの間に起きた出来事を想定しています。
オリジナル要素は散見されますが、概ね原作に沿うように、こんな話が合っても違和感がないように、という幕間の物語として、皆さんの記憶に留まるような作品になっていれば嬉しいです。
長くなってしまいましたが、このような貴重な機会に、依頼形式ながらこちらの書きたいものを書かせてくれたblewさんに改めて感謝を。
この内容を一ヶ月で書けたのは、ひとえにblewさんの解釈が強固かつしっかりと裏打ちされたものだったからに他なりません。
また、こちらでは持ち得なかった視点も沢山もらったことで、その後に書いた拙作にも大きな影響を受けました。
本当にありがとうございました。
そしてなにより、本を読んでくださった皆様にも厚くお礼を。
いつか、思い出した拍子に再びページをめくっていただけたなら、これ以上嬉しいことはありません。