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中国生活5年、中国語は話せるの?

 こんにちは、ゆきの(@yukino_shenzhen)です。

 アジアのシリコンバレーとか言われちゃって、本社をかまえるテンセント(Wechatの会社)やらDJI(ドローン大手)やら、中国を代表する巨大企業の勢いは増すばかり。いやカッコ書き入れてる時点で、そんなに有名でもないのか?

 そんな中国・広東省深セン市での生活が、5年ちょっとになりました。前に住んでいたシンガポールは3年半だったので、深センでの生活の方がずっと長いことになる。

 なんでだろう。

 別に住みやすいとか全然ないのに。

 飽き性で執着ゼロ、すぐに次の場所を探し求めてフラフラするのが自分の長所でも短所でもあったような・・・。

 無意識をむりやり深掘りしてみると、たぶん、中国語わかるようになったから、という理由があるかもしれない。

 中国生活の開始当初は、格安オンライン中国語レッスン を毎日続けて(払ったからにはなにがなんでもモト取りたい粘着質)中国語テキスト を kindle で買っては読み漁り(ただただ本を買うのと読むのが好き)、中国語の資格であるHSKも独学でやりましたよ。

 基礎固め的なコツコツ独学に加えて、毎日が応用発展の実践チャレンジ。

飲食店での会話、スーパーでの会話、タクシーでの会話、大学院での授業、先生との会話、そしてトラブルシューティング

 賃貸の契約、家の備品が壊れて大家と交渉、修理屋を催促、デリバリー来ないと電話、デリバリー完了通知きてるのにモノが届いてないと電話、税務署での確定申告、社会保険がなぜか使えない、etcetc

 鍛えられたのは主にトラブルにまつわる中国語ですね。解決できたかはさておき。心臓の毛はすっかりボーボー。強くなった。たくましく生きている実感はある。

 中国生活5年。中国語できるようになった、とも言えるけど、なんか見方を変えたら中国式の会話と文化に慣れただけなのでは?(トラブルは一生慣れない。できれば静かにひっそり暮らしたい)

 そうなんですよ。語学力とコミュニケーション能力は全く別物。中国語ゼロといつも言ってるおおらかな性格の友人は、タクシーの中でも食事の最中でも、話しかけられたら楽しそうに会話している。彼女は「中国語はわからなくても、なんとなく言ってることがわかる」とのこと。そういうもんかな?

 別の友人は、「1年住んだらいけるって」と自信ありげに言っている。ムダに。そんな彼の話しぶりは自信に満ちあふれているが、はたから聞いていて、あまり心地よくない。いいなあ、その根拠のない自信。とうらやましくなる一方、「こうはなりたくないなあ」と正直思う。つまり住んでるだけじゃうまくはならんということだ。ありがとう反面教師!

 ふりかえって、自分はどうだろう。

 「おめ外国人か? 中国語うんめえなー!」と、タクシーに乗ったら言われる。(なぜか私は外国語を聞いて脳内変換するときに、謎の方言をあててしまう癖がある)1年目と2年目までは素直に喜んでいたけれど、最近さすがにうんざりしてきた。なんとか外国人とバレないまでには、最小限の単語とフレーズだけでも鍛えたい。それまでは、素直に受け止めて感謝しよう。心をまっすぐに、むやみにねじくらかさないように。

 そして反対に、「マジで下手だからはやくどうにかしたほうがいいよ、特に発音」とストレートぶっ刺さるご意見を賜ることもある。主に日本友人です。しかもこれは私から「中国語うまくなりたいからおかしいところあったら指摘してくださいお願いします」と頼んだ友人に限った会話。とはいえ、辛辣なフィードバックがしんどいときもある。そういう友人は、自分にも他人にも厳しいタイプなので、彼らの流暢な会話には努力が透けてみえる。「よし、私も努力を積み重ねるゾ!」なんて前向きになれる瞬間はほとんどない。ぼそぼそと自分の声が聞こえる。「こんなんだけど、なんとかなってるし。確かに指摘してとは言ったけど、授業じゃないんだからたまにはスルーしてくれてもよくないか」ああ、うっかりねじれた心がうるさい。

 つまり私は、うまいと言われたらうんざりするし、下手だと指摘されたら不満げにねじくれる。周りになにを言われても自分の判断材料にはならないのだな、とここまでふりかえってみて気付いた。そしてもうひとつ。「なんとなくわかるよ」「1年住んだらいけるって」と言う友人たちと私の大きな違いは、自分がそれでいいと思っているかどうか、じゃないだろうか。客観じゃなく主観で判断して、それを享受するのが自然体って、なんだかとても健やかだ。

 彼らの自然体にならってみる。周りになにを言われたのかではなく、隣の友人と比べるのもいったんやめる。自分の変化や成長をはかるには、過去の自分と比べるのがいいらしい。もっと言うと、「過去の自分がやっていた入門レベルのテキストをひっぱり出してきて、パラパラ見て、わかるなーと思ったらそれが成長の証」なんだとか。さっそく、kindle にため込んだ入門テキストを再ダウンロードしてスワイプしてみる。うん、わかる。ちょっとほっとした。

 中国生活5年、中国語は話せるようになったのか?

 話せるようになったよ。以前の自分よりかは。

 これが今のところの着地点です。きっとまた、トラブルにみまわれてしどろもどろ単語をならべてがんばってガチギレ(怒るのほんと苦手)してみたり、友人からの辛辣なフィードバックに突き刺されたり、タクシーに乗りこんで「まず左に曲がって」と言ったら「ほいよ」となめらかに右折されたり、そういう日常の連続でへこむこともあるんだろう。

 おそらく、自分に語学のセンスはない。10代や20代だったら自分の伸びしろを根拠なく信じられたし、実際に努力すれば進学とか就職とかどうにかなった。しかしね、アラフォーにもなるとわかるもんだ。「こんなもんだよね、あたし」という能力の限界値。これまでの語学は若さあふれる努力でカバーしてきたけど、必死に話しても聞いてもなにひとつピンとこない時に「センスねーなー」と思う。「なんとなく、わかるじゃん?」がないじゃんね。センスある人との会話にありありと浮かぶセンスのなさ。

 そんなもんだよ、そんなもんでいいんだよ。生活に慣れたから中国語がわかるのか、中国語がわかるようになったから生活が続いていくのか。今やっているリスニングのテキストが聞き取れるようになったら「またひとつ、中国語できるようになった」と言えるかもしれない。いやそれよりも、右折と左折の発音をマスターしたほうがいいのでは。


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