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アラフォー留学生が「正しさ」について考えさせられる

去年9月に中国の大学院に入学、いきなり海外大学院留学が始まりました。

しかし、去年はゼロコロナ政策の影響でほとんどオンライン授業での単位取得。(今になって思うと、ほんとあれなんだったんだろう。中国の地味ーに過酷だったウィズコロナ体験記、それはまた別の機会に)

それから半年以上が過ぎて、今年の2月にやっと毎日通学の留学生活が本格的にスタートとなりまして。

楽しい、楽しい。

朝8時半から夕方5時半までフル中国語でガチネイティブのスピードと容量で展開される授業も、学食のいつもの場所でいつものメンバーが集まって冗談を言い合うランチも、論理的思考を要求される宿題のエッセイも。

全てが新鮮でエキサイティングで、ワクワクに満ちあふれていました。最初はね。

し、しんどい…ッッ!

1ヶ月経過した大学院留学、だんだんと楽しさは薄まってきて、その後に襲ってきたのがしんどさ。
語学留学なら、外国語「を」学ぶのが目的だけど、大学院留学は外国語「で」学ぶのが目的であるわけです。

そのため、文学でも歴史でも文化でも、先生たちの専門的で情熱あふれるトークは止まらない。「わかりません」だの「もう少しゆっくり話してください」だの、手を挙げる余白が見つからない。

「よし、進学しよう」といきなり決意したのが約1年前、そして大学院に出願して合格通知をもらって今に至ります。

全然知らなかったんですけど、考えもしなかったんですけど、だいたいの人は大学の語学クラスを半年や1年受けて、外国語「を」学んで、そこから四年制とか研究課程とかに進学みたいですね。
「まずは語学クラスで勉強しよう」なんて、そんな発想なかったな、私。

「大学院出願の要件? フンフンフン…よし、満たしてる! なんかいけそうじゃん?」

いや全然いけてないってば、私。
進学後に目の当たりにした現実、自分の単細胞ぶりとフットワークの軽さを恨みそうになります。

とはいえ、落ち込んでも恨んでもいられない。
語学のコツは日々コツコツ。これしかないってことが、中年になっても独学で語学を続けている上での最適解です。

毎日一緒に授業を受けるクラスメートも、学食でランチを食べる留学生たちも、私の周りは中国語を上手に話す人ばかり。という思い込みになりがち。

その一方で私といえば、読み書きは強い。授業で使っている教科書をよーーく見ていれば、なんとなく分かります。なぜならほぼ漢字だから。

ひとりでコツコツやる宿題も得意です。なぜならほぼ漢字だからね!

しかし、会話に弱い。おそらく単語数が足りてないので、耳で単語を拾えないのが現状です。
さらに発音が下手なので、必死に知ってる単語やフレーズをしゃべっても、高確率で相手に聞き返されて、その繰り返し。

聞き返されるだけならまだいいのですが、さらにしんどいのは私の下手な発音に対して留学フレンズにチェックを入れられて、訂正されるときです。

人生も語学も、いきあたりばったりでテキトーにやれることだけでやり過ごした私にとって、発音やフレーズに適宜ツッコミを入れてくる留学フレンズは「真面目な性格な人だなあ」という印象です。

もしも私が同じような状況で、日本語勉強中の留学フレンズに「あした学校行くない」とか言われたら、私は「そっか、行くないのか」って返事をするかもなあ、とか想像してしまいます。

「行かない、が正しいって教えてあげなよ!」とツッコミが入りそうですが、留学フレンズと私は友達であって学生と教師ではないし、正しくない言い方でもまあ伝わるし、なにより、それはそれで個性的な話し方でいいと思うんですよね。

授業やテストだったら、正解また不正解の判断が必要ですが、フリートークにおいて正しいとか間違いって、いりますか?

私の中国語に指摘を入れる留学フレンズに関しては、「うん、この人は真面目で、私の語学力の向上に貢献してくれているんだろうな」と認識して感謝することに決めています。

それは私がアラフォーで、そこそこ経験値を積んできて、そう認識するのがよさそうだと判断したからです。10代や20代のギンギンに尖りまくった私だったら、大炎上まちがいなしブチギレ案件だと思います。(年取ってよかったー、ははは)

それぞれ個性や文化、生まれ育ってきたバックグラウンドが異なる留学フレンズと時間を共にするようになって、今まで気づかなったことに気づいて、それが考えるきっかけを与えてくれました。

そのひとつが「語学や会話において、正しさってなんだろう」ということです。

日本で、日本人として生まれて育って、日本語で日本社会で生きている時には存在しなかった疑問について、アラフォー留学生が考えさせられています。

個人的には、正しさを追求する、間違いを指摘する、正しいか間違いかを判断する、これらは結構しんどいことなんじゃないかなと。
テストで満点を目指して正解を積み重ねるのは確かな実力ですが、フリートークで正しいor間違いの判断を持ち込むのはなんだか不快だし、なにより面白くないじゃないですか。

それから、「正しさ」という鋭利な刃みたいなものを常に相手に突きつけているとしたら、それはもれなく自分にも返ってくる、とも思っています。
自分がゆるく楽しく会話をするために、「あした学校行くない」という友人に「そっか、行くないのか」と私は返事をするのかもしれません。

もうすぐ10年になる海外暮らしと外国語環境のなかで、私はいつの間にか、「正しく話す」と「楽しく話す」を分けていたようです。

そりゃあもちろん「正しく楽しく話す」が成立するのが理想ですが、私のスペックはそこまで高くないんですよね。

大学院の授業中や、教授との会話では「楽しくなくても正しく話す」を優先して、反対に友人とは「正しさはさておき、楽しく話す」のがいい。

というわけで、頭の中の落としどころをつけてはみたものの。
「また中国語の発音間違ってる! それじゃ通じないよ!」と留学フレンズから不意にツッコミが入ったら、怒りにまかせて大喧嘩したくなる昼下がりもあります。

アラフォーだって、にんげんだもの。


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