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ワンオペだからこそできること。日本の幼児教育になぜプレイセンターが必要か?

ニュージーランドで1941年に始まった親による幼児教育活動プレイセンター。

プレイセンターはこどもには「豊かな遊びの経験」を、その親に「親のための学習コース」を提供し、こどもと大人の両方を支援します。

先日、月に一度の親の学習会を開催しました。

今回のテーマは日本における子育ての現状についてでした。色々な意見が出たのでまとめてみました。

子育てを楽しみたい、子育てを通じて成長したいと思う親にとって、厳しい日本の子育て環境。

日本で子育てしているのは働くママばかりではない。しかし、日本の子育て支援の在り方は働くママのための施策しかない。
現代の子育てシーンは、保育所、幼稚園、お稽古ごとなどお金を払って専門の先生に子どもの教育を任せるという傾向が強まっている。

その施策を同じように日中子どもを見る主婦(主夫)にあてがわれても、本質的な支援とはなりがたい。子どもを預け離れることで一時の休息にはなるが、子育てについての様々な疑問や不安などは解消されず、子育ての難しさは依然家庭の中に残ったままである。

特に日中、片方の親が仕事に出てしまい、誰にも子育てを頼ることができないワンオペ育児をしている親は辛い。誰にも頼れないという不安や閉塞感により、鬱症状を発症したり、児童虐待などの問題に発展する事例も。

親がワンオペ育児から脱出するためには、片親をワンオペにするしかない。子育てをしたいのにも関わらず、子育てを手離すことでしか子育てできない現状がある。

空洞化する日本社会。孤独な親と子どもたち。

なぜ子育てがこんなに難しくなってしまったのか?それは経済成長に人材が奪われてしまったからである。

先の敗戦後、日本は荒廃を経済で取り戻そうと高度経済成長期を迎える。まず男性が会社で働くようになり日本はものすごいスピードで発展した。しかし家庭からは日中父親の姿が消えた。次に女性の就労支援の施策も手伝って母親も日中家庭から消えた。地域も拡大家族も解体された。子どもも保育園に預けられ、もはや子どもも家庭にはいない。

日本は経済発展のおかげで豊かになり、個人が働くことを通して自己実現できたり、女性が男性と肩をならべて同じように働ける機会を持てるようになった。そのことは喜ぶべきことであるが、家庭からどんどん人の姿が消え「おうちの中が空っぽ」状態の在り方が多数になってきている日本の社会というのはいささか不気味でもある。肝心の子どもを「見守る目」というのが本職の保育士や先生などに偏っているのも気になる。

まだ「地域」や「拡大家族」というものが残っていた時代は、子どもは宝だった。自分自身もいろんな大人に見守られて大きくなった。
近所のおじちゃんが学校から帰ってくると「おかえり。」と声をかけてくれた。お母さんに怒られたらおばあちゃんが優しく慰めてくれた。「〇〇ちゃん、大きくなったね」なんて会話は大人の間で日常茶飯事だった。

今はそのようなコミュニティがない。
継続的な「見守り」がない子育て世代にとって、子育ては孤独なタスクになりつつある。

では、コミュニティがあれば話は解決するか?というとそうでもない。

ママ友パパ友の集まりがあっても、子どもの愚痴を言って終わりになってしまうことが多く、具体的な解決策に繋がることが少ない。何より我が子のことになると色々な主観が入ってしまうので冷静に見ることができない。

ワンオペループから脱却するには?

コミュニティがあってもそこに属する親や社会全体が「ヨソの子」という意識でしか子どもと関わらないのなら子育て世代がワンオペループから脱却することは難しい。

なぜなら、「ヨソの子」だという意識で関わる限り、子育ては個人が解決すべき単なる個人的な問題に終始するからである。
「分かる〜」「ウチも同じだよ〜」「あなたのところも大変だねー」と同調するばかりでは子育ての問題はなんら解決しないのである。

また、親が子育てを抱え込むことによって「レッテル貼り」や「母子(父子)混同」も起こりがちである。祖父母や地域の人など第三者の関わりが少ない子育ては、母(父)親が実際の子どもの姿ではない姿を勝手に妄想して子育てする傾向が強くなる。

親のコンプレックスやトラウマから、子どもに過剰な期待をしたり、あるべき姿を当てはめる「レッテル貼り」や「母(父)子混同」は子どものあるがままを否定し、健やかな親子関係を損なう。

プレイセンターでは、自分の子どもの遊びの観察を他の親がし、自分は他所の子どもの遊びの観察をする。継続的な観察は、親に、子育ての気づきをもたらし、学びにつながる。それを親同士が分かち合い、子どもの成長を共に喜ぶことがまた子育ての活力になる。

「子どもが、親が、みんなが成長する」

それがプレイセンターの基本理念である。

あの子もこの子も子どもはみんな「ウチの子」であり、我が子においてもそれは例外ではない

子育ての問題は社会全体の問題であるという意識を主体的に大人や社会全体が持ち、その問題に積極的かつ冷静に取り組むことで、子育て世代はようやくワンオペループに終止符を打つことができるのである。

子育てに価値を見出さない日本社会。

けれど、今の日本は経済優先で、社会で働く人ばかりがクローズアップされる。

会社で働くことだけが仕事なのだろうか?

そもそも仕事というのは「公共性があるかないか」(社会の役に立つかどうか)である。

では子育ては仕事ではないのか?

確かに子育ては経済優先の社会では何の役にも立たない。生産性もないし、極めてコストパフォーマンスが低い。

けれど、こうは考えられないだろうか?
子育ては有能な人材育成であり
それは長期にわたる投資と同じであると。

未来の社会を担っていくのは、間違いなく「子どもたち」なのだ。

世の中では、子育てママ、ワーママどちらが偉いのか?と比較するような風潮があるが、どちらも同じくらい大切な「仕事」であることには変わりない。
その上では、子育ては歴とした仕事だと言える。

助けられる存在から助ける存在へ。ワンオペだからこそ誰かの助けになる。

日本は今、多様性を認める時代になりつつある。

人は色々な「生き方」を選択できるようになってきた。それは先に述べたような働く女性、子育てをしたい親も然りである。今はそういう生き方を選択しても良い時代である。育メンだって良い。主夫だって良い。誰においてもそれを選択する権利があるのである。

ただその権利が保障されているかと言えば、話は別である。それが生きづらさであり、現代の課題である。

日本の社会は、周りに迷惑をかけてはいけない、子どもにしつけやマナーを教育すべきである、周りがどう思うかを考えてその考えに合わせるといった道徳の問題ばかりがフォーカスされがちであるが、それと並行して、先にあげたような権利を保障する主体的な取り組みが国や行政ではなく、それを必要とする個々人によってなされるということもこれからの時代においては大切なことである。

個々人のニーズを公共サービスとして国や行政が形にするには、ニーズが多様すぎるからだ。公共サービスとして形になったとしても、利用者の本当に痒いところには手が届かないだろう。サービスを受ける側から自分の欲しいサービスを提供する側になることで初めて多様なニーズを満たしていくことができる。

実際、学童期の教育においては、公教育に頼らないオルタナティブスクールやホームスクーリングなど親たちの動きにより色々な教育の選択肢が出てきている。

乳幼児の教育においては、日本では預ける以外の選択肢以外無いのが現状である。

1941年にすでにプレイセンターという選択肢があったニュージーランド。「人権」ということをその時代にもう意識し、その権利保障に動いていたことは驚きである。

日本もこれからどんどん多様な生き方が出てくる。今後益々「人権教育」の必要性は高まるし、個々人が自らより良い社会を求め作っていく姿勢が求められるのではないだろうか。

社会が変わるのを待つばかりではなく、ワンオペだからこそ社会を変えていくことができる。そしてそれが誰かの助けになる。

プレイセンターほしのおうちは、子育て世代の親たちのその小さな第一歩である。
こどもを真ん中に据えたこどもと親の場作り(そこに参加することも含めて)が、どこかで孤独な子育てをしている親の新天地になる。
自分の足で前を向いてしっかりと歩き出すことこそが真のワンオペループからの脱却になるのではないだろうか?

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