うつくしい始まり
ふっと表情を変えたような冬の冷たさに身をくるませてしまう。
ふと、原宿に足をのばし、10分ほどのダンスをいくつか観る。
しばらくダンスを観たい意欲がなくなり、予約したいと思っても、もし当日まったく行く気がなくなってしまったらと思うと怖くなり、ふらっと当日観ることが可能なものだったので、安心して足を運ぶことが出来た。
ここずっとしばらく踊る身体を観ていても、その身体の実感というものが持てなかった。
身体の実感とは何かと疑問に思い、そして身体の実感が持てなくても持ててもどちらでも良いのでは?とも思う。実感が持てなくても、目の前で踊っているひとが生きて目の前で踊ることが出来ていてよかった、と感じている。
家のなかで放し飼いにしているジュウシマツは、手のなかに納めても軽すぎて、重みがない。体重や大きさが小さいせいか、普段の気配もさりげなく、でも、触れるととても温かい体温、熱をもっている。その熱と反応を感じることで、まつが生きていることを認識している。
質量、熱、反応を認識することで、生きていること、存在していることを実感しているのだろうか。
今日外で観たダンスの身体、衣装のあいだから晒された肉体を観ていて、あらためて、これほどじっくりと生で他者の肉体を見ることはないことに気づく。ただ、見るだけの行為を。
裸体で眠っている姿、または性的な日常生活の場面以外で、その身体を、肉体の表情の変化を見つめる時間。鏡や写真、映像を通してではなく、自分自身の肉体は生で全体を見ることは出来ない。でも、他者の肉体なら出来る。
踊るものをつくる時に、胸がどのように見えるのか、他者の目に見えないように、でも隠すようなかたちではなく…つくられてゆく踊りにそった服をかたちづくる。背中はあらわに、でもそうすると胸が…紐を使ったら、でもその線が、厚みが気に入らないなどと自問自答し、毎回その自分の装う不自由さに苦しめられつつ楽しみつつも、目の前でさらけだされた胸に、あらわになった他者の肉体に、身体の尊さを感じていた。
そして、ダンスが始まるときにうまれる、変容していく空気がうつくしかった。
身体の実感は、またどこかで。
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