名もなき家事の最たるものは(「名もなき家事に名前を付けた」) | きのう、なに読んだ?
数ヶ月前、いつものように漫然とツイッターを眺めていたら、これが目に飛び込んで来て、思わず拍手喝采した。
ツイートを発信した梅田悟司さんは、コピーライターだ。育休取得中に「名もなき家事、多すぎ!」と実感し、それらに名前をつけることが「コピーライターである自分にできる、家事をがんばる人に対する最大限の敬意の示し方なのではないか。」と、名付けを開始。それらを1冊の本にまとめた。名付けた家事、70個。
その中から、そうそう、これやってるわ〜って私が思ったものをいくつか挙げてみる。
「冷たい警告音」
冷蔵庫のなかにあるものを確認していたら「ピーピー」という警告音が鳴り始め一度占めてからまた開けて確認する家事
「他人の尿ぬぐい」
絶対に自分がつけていない便器の黄ばみを落とす家事
「開閉地獄」
ゴミ袋の口をきつくしめた後に新たなゴミが出て、きつく閉めたことをこうかいしながらどうにか開ける家事
「キッチン篭城」
ケンカをしたとき、キッチンにたてこもりなんとなくコンロをふく家事
「手料理スルー」
スーパーの総菜だけでは申し訳ないので手料理を1品作ったのに、その料理だけが余っているのを切ない気持ちで見届けながら自分で食べ切る家事
この本を台所においておいたら、大してお手伝いしてない小6娘がパラパラめくりながら「ああっ、これ、私もやってるー!」「ああ…分かるわ…これねえ…」といっちょまえに笑ったりしみじみしていた。「ペーパー逆回転」(子どもが興奮状態で盛大に引き出したトイレの紙を、地道に巻きなおす家事)は「わたし、そんなことやってない」と豪語するのを、いやいやいや、なさってましたよお嬢さん、と一緒に笑ったりした。
さて、家事に関して私がお見事!と感じ入った考察がある。2年ほど前のウェブ記事だ。(記事の中で、妻だけが料理する前提になっているところにちょっと違和感あるが、そういう家庭が多いというのが私の実感。)
例えば洗濯なら、こうなる。
◯考える家事:
・家族のスケジュールを見て、洗濯物の多寡を予測する
・週間天気予報と自分のスケジュールを見比べ、どのタイミングで何回洗濯をするかを決める
・洗剤があと何回で無くなるか見極めて、スーパーの特売日と照らし合わせ、いつ購入するか決める
◯行動する家事:
・洗濯機を回す
・干す
・畳む
通常、家事として目に映るのは「行動する家事」の方だ。
でも、「考える家事」をしないと、行動には移せない。
手を動かせば進んでいく「行動する家事」とは違い、「考える家事」には予測や判断といった要素が入ってくる。
重要度が高く、脳に負担がかかるのは、「考える家事」の方なのだ。
ところが、自分から積極的に家事をしない人には、そこが分からない。
「行動する家事」だけを見て、「お前はたいしたことしていない」と言う。
自分が手伝うときも「行動する家事」部分だけをやって、「してやったぞ」と大きい顔をする。
名もなき家事の最たるものは「考える家事」、というのが私の実感だ。「考える家事」の中にも得意なのと不得意なのがある。例えば私なら、食事の用意について考えるのは好きだが、例えば片付けについてはからっきしダメ。そのため片付けは「行動する家事」のほうも遅くて下手で、作業量のわりに片付かない。こんまりメソッドにずいぶん助けられたのだけれど、それは「考える」部分をこんまりさんが肩代わりしてくれたから、と言えそうだ。
昔、夫と家事分担(と私の働き方)について話し合いをしていたとき、夫に「あなたが仕事で、指示したことを「ちゃんとやりました!」ってドヤってる後輩と、こちらの考えを察して指示した以外のことも「やっときますね」っていう後輩と、どっちを頼りにする?」というたとえ話にて、この「考える家事」の存在に気づいていただこうとしたこともあったなあ…。
さて、梅田さんの本に話を戻すと、あとがきにこんなことが書いてある。「こんなにあるなら、そりゃ家族で分担しなきゃムリだよね、と家事分担について会話が生まれたり、前向きなあきらめから、前向きな流れができると思うのです。」
こうした会話や前向きな流れから、少しずつ「我が家はどうありたいのか」がちょっとずつあぶり出されてくるんだと思う。どの家事はあきらめてもオッケーで、どの家事はきっちりやりたいのか。食洗機やロボット掃除機、ガス衣類乾燥機、導入するのかしないのか。家事代行、頼む?子どもたちをどう巻き込むか。お手伝いしたらお小遣いあげるのか。家族の団らんの時間はどう持つか。親族に会う頻度は?ひとつひとつの判断の根底に「なぜそれが大事か(大事でないか)」の価値観がある。
ここまで書いて、SNSで時々流れてくる「レンガ職人の寓話」を思った。ざっくり言うと、あるひとがレンガ職人に何をしているのか尋ねると「レンガを積んでいる。たくさんあって大変なんだ」と答えた。次のレンガ職人に尋ねると「壁を作っている。これで家族を養ってるんだ」と答えた。最後に3人目のレンガ職人に尋ねると「教会を建てている。村の祝福の場、悲しみを癒す場になるんだ」と答えた、という話だ。
家事一つひとつは、レンガを積む作業に似ている。本書のタイトルにある「その多さに驚いた。」は、レンガ積みに例えるなら教会を建てるのに必要なレンガの個数を数えたようなもの。これをどう組み上げるのか計画し準備するのが「考える家事」の領域。どういう家庭の姿に向けて組み上げるのか、言わばどんな教会を作るのか、が「前向きな流れ」から見えるようになる領域。
家事って、家族の中でどう分担・分業するか、に焦点を当てがちだけれど、分担した作業を統合した「家庭の姿」のイメージ合わせも、大事。(なかなかできないんですけどね。)家庭における分担と統合については、こちらのnoteの後半でも考えている。
「名もなき家事」の最たるものは、「考える家事」であり「家庭を統合する」家事だ、というのが私の見解だ。
今日は、以上です。ごきげんよう。
(picture by wakingphotolife)