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あいだ通信 no.4:庭師(おとずれ考学)

「庭師」という存在に備わった身体感覚をインストールする必要性に駆られていた。その理由はぼんやりとしていたが、時代とか気候とかのたぐいがわたしに揺さぶりをかけていた。

違和感ここにひとつ。
庭を鑑賞する時、美しい景色やそれを補足する様式的な情報ばかりに流されて、何かを観た気になってしまっていないか。

違和感もうひとつ。
庭を額縁に入れられた美しい絵画のように静的に捉えすぎていないか。人工的に「作られた自然」とはいえ、自然である以上、何かうごめいている姿が隠れているのではないか。

これは、素人鑑賞者の不毛な呟きかもしれないが、庭園を訪れたその日のその一瞬に見えているものだけを観賞する、その過程で抜け落ちてしまうなにかを、視点の不足のようなものを感じていた。そして、もしかすると、そこにはまだ翻訳されていない「庭師」の行為が転がっているのではないか、とうっすら思っていた。

視覚的にわかりやすい表面的なものに目移りしてしまう現代社会をに、わればかりに意識が安住した途端に見落としてしまうものを見落とさない訓練。庭のA面だけを観賞して終わらず、見えないB面に干渉してみたかった。

そんな独りよがりなウヤモヤを抱え、京都某所の庭園に三日間の見習いへ。その庭園の主木(シンボルツリー)は既に枯死状態にあるが、あえてそれを残している。そう聴いたときに、すでに不思議な巡り合わせを感じていた。

庭園の主木 / ビャクシン(ヒノキ科)

一、 おとずれと音ズレ

春を待つ冬の庭園で、庭師の導きを受けながら実際に庭の手入れを行う。

茶室の横に植えた茶木(椿)に発生した茶毒蛾ちゃどくがの話から、松葉むしり、梅の木を囲う雑草の間引き体験。そして、枯死したシンボルツリーのただならぬ気配まで。

身をもって体験したことをもう一度庭を巡るように記録していく。その道先案内人として、まずは「おとずれ」というキーワードを共有しておきたい。そして、このコトバの音や意味を借りながら、庭師の目線に接近し、庭の景色を拡張してみたい。

平安時代、床まで垂れ下がるころもまとった女性が歩くと、衣と床は擦り合い、音を立てた。恋しき人が音をれて、向こうからこちらにやってくる。その様を「おとずれ(=音連れ / 訪れ)」と読んだ。まだそこに完全には到来していないものが、もうすぐそこにある状態を指す「おとずれ」は、時間と空間に奥行きを見出しながら「あわい(間)」を捉えるセクシーな感覚だ。

季節のおとずれもまた、音を立てる。
雪解け水は川の音量を上げて、冬から春へのうつろいを。飛び回る小さな虫は空気をブンブンと揺らし、春から夏へのうつろいを、知らせる。思い返せば、わたしたちも、あちー、さみぃーとこれまた音で参加しているではないか。

春の「おとずれ」を待つ冬の庭に手を入れながら、そんなことをぼんやりと考える。ここで「おとずれ」についての私論と拡大解釈をひとつ。

おとずれ(訪れ)は音のズレとともにやってくる。
すなわち、なにか新しいものがそこを「おとずれ」る時、今までそこにあった別のなにかがその場を譲り、「音ズレ」を起こしながら抜け落ちていく。それまでリズム隊として主役だった音が、別の強い音が参入した(おとずれる)瞬間に、不協和音(音ズレ)になり下がり、その存在が陰り出す。

生成(生)があれば、消滅(死)があるように。新しい存在の「おとずれ」には、その場からはずれる別の存在の「音ズレ」を伴う。なにかが入っては、なにかが出ていく。参入と撤退。季節の巡りや庭師の介入を受けながら、庭はダイナミックに動き続けているのだ。

一方、鑑賞者であるわたしは、そのダイナミズムの一端や瞬間を捉えることしかできておらず、お目当ての花が咲く(訪れる)頃には、そこから抜け落ちてしまった不協和音(音ズレ)に気づくことすらないのだ。だからこそ、花が咲く以前に存在したもの(鑑賞者には見えない存在)と日々対話を行う「庭師」の声に耳を傾けてみたいのである。

IN(おとずれ / 参入)とOUT(音ズレ / 撤退)の関係

二、 喫茶のための鳥の「おとずれ」

庭園の中に佇む茶室の横には、茶樹(椿)がびっしりと植えられていた。

そこに想定していなかった「おとずれもの」がやってくる。チャドクガ(茶毒蛾)だ。大量発生するそれに薬剤を撒いて駆除するも、根本的な解決にはならず、椿の木自体も枯れてしまうという本末転倒。そこで、庭師は過密になった椿の枝に鳥が憩える空間スペースをつくった。すると、鳥が飛来し、チャドクガを食し、徐々に蜘蛛や蜂も増え、最終的にはチャドクガの発生を食い止めたることができたそうだ。

野生の機能を根絶してしまう薬剤から、野生のチカラを循環させるための手入れへ。不測の「おとずれもの」に対して、別の「おとずれもの」が飛来する余白(よりしろ)を準備した。

ここには空間から抜け落ちるチャドクガの「音ズレ(撤退)」と、鳥や虫の新たな「おとずれ(参入)」を同時に読むことができる。

三、 松の葉と光と苔の「おとずれ」

新たな「おとずれもの」を歓迎する余白(よりしろ)づくりの手法は、園池を囲むように植えられた松の木にも見られた。

落下した古葉ふるばが下に茂る新葉しんばからまると、新葉に当たる日光を遮ってしまうことになる。ここでは地道に落葉を取り除きつつ、落葉する前段階の古葉も必要に応じてもぎ取っていく。

ぎとられた松葉は処分するのではなく、松の木の下に撒く。それにより、土壌が弱酸性になり、その環境を好む苔が育ちやすくなるという。撒かれた松葉は冬は緑、春には赤茶色となり、周囲の環境とのコントラストを生み、ランドスケープを形成する。

ここにも落葉した松の「音ズレ(撤退)」と同時に、光や苔の「おとずれ(参入)」がある。ただ、ここでは「音ズレ(撤退)」するはずの古葉の移住計画が庭師によって行われることで、完全な撤退ではない形で空間を構成し続けている。感嘆する他ない。

四、 梅の花とウイルスの「おとずれ」

梅と桜のない春を日本人は知らない。

庭の梅園にはそんな都合を露知らず、梅の木にとっては害となる雑草(アーバスキュラー菌根)が忍び寄る。雑草は見た目重視の美意識や、遊ぶための空間確保のためだけに取り除かれるのではない。土の中では植物や菌類がインターネットのように接続し、その中にはある種にとって害(ウイルス)となるものも流れている。

庭師は地中サーバーのウイルスチェッカーとなり、その雑草を根こそぎ取り除く。梅が咲く春の「おとずれ(参入)」に加担するように、雑草の「音ズレ(撤退)」に手を貸している。

地上世界と土壌世界 / 見えるものと見えないもの

五、 動く庭 | 鑑賞から干渉へ

「おとずれ」と「音ズレ」。このリズムに乗りながら庭園に干渉し、「生成」と「消滅」あるいは「参入」と「撤退」を繰り返す庭のダイナミズムに触れてきた。庭師ならではの視点、鑑賞モードでは触れることのできなかった景色を共有することができただろうか。

最後に、庭園の主木(シンボルツリー)であるビャクシン(ヒノキ科)にも触れたい。ビャクシンは築山づくり(人工的な丘づくり)に欠陥があり、世界恐慌(1929)と時を同じくして水枯れ死してしまったそうだ。

枯死状態のまま残置されたビャクシンからは、ただならぬ気配が漂っていた。それもそのはず、枯死という形で「音ズレ(撤退)」したはずの存在が、約百年が経とうとする今も目に見える形で残っているのだ。健全とはいえない状態でも、現前げんぜんしているのだ。

1929年頃に水枯れ死した主木のビャクシン

さらにビャクシンは新たな「おとずれ(参入)」の様子までを見せてくれている。枯木からは、なにものかによって運ばれたハゼノキ(ウルシ科)の種が芽生え、新たな生命を宿し始めている。庭は常に動き、ゆらぎ、もつれ合っている。庭師がたびたび言葉と身体で教えてくれたことを、ビャクシンもまた物語っている。

目に見えるものだけを頼りになにかを選択・判断する鑑賞者の足を、生活者の思い込みを、ビャクシンは停止させ、宙吊りにする。

結果論として「ある(being)」か「ない(not being)」か。世界はそんな瞬間や結果だけでは捉えられないことを、その前後には「〜になる(be-coming)」という時間や空間があることを思い出させてくれる。

庭師の存在論 / ビーイング(有無)とビカミング(生成)

「おとずれ」はまさに「ビカミング(be-coming)」、プロセスの渦中を言い当てた奥行きのある日本語の代表格だ。鑑賞者にとって主題となる花や景色が「ある」状態をつくるために、庭師はそこではもう見えてい「ない」ものに干渉した歴史を持っている。庭師は、いつも流動的なプロセスとしての「ビカミング(be-coming)」の中で庭に手を入れているのだ。

わたしが庭師の身体感覚をインストールしたかった理由は、恐らくここにあった。効率性や生産性を標語に掲げ、自然と社会の「あいだ」に仕切りを設けてスピードを追い求める時代にあって、自然と人工の「あいだ」の庭園で、”思索”と”試作”を繰り返す庭師の仕事に学ことはあまりにも多かった。

わたしはそれに”詩作”を重ねただけかもしれないが、鑑賞者のものの見方を揺さぶり、プロセスとしての「動く庭」への干渉(おとずれ)を助長してみたかった。  

家庭や校庭、公庭(公園)をはじめ、社会には「庭」と呼ばれる場所が多くある。それぞれの庭との関わりを再考するための「問い」もまた、庭師は隠し持っているんだろうと、わたしなんかは思っている。


Text by Keisuke Saeki | 星ノ鳥通信舎
Art Direction by Sakura Ito | 星ノ鳥通信舎
Location in Shoseien | 渉成園 / 東本願寺

● あいだ通信 | 星ノ鳥通信舎
間合いの国・ニッポンの⽂化に息づく「あいだ」の思想や技術をさまざまな⾓度からリサーチする星ノ⿃通信舎の連載企画。なにかとなにかの「あいだ」から世界に新たな視点や対話をつくりだすものごとにスポットを当て、その価値を再発⾒・再構成していきます。毎月テーマを変え、コンテンツを配信。

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