打越さく良議員は本当に憲法違反なのか? ~信教の自由と統一教会~
立憲民主党の打越さく良議員が、統一教会と濃厚な関係がある山際大志郎経済再生担当大臣に、統一教会の信者かどうかを質問したことが信教の自由の侵害・憲法違反だとして一部界隈で大炎上している。
素人がこの憲法の条文だけを読むと別に違反しているようには見えないが、いわく、信教の自由には信教の告白を強制されない自由もあるので、質問もしてはいけないとのことだ。
なるほどそれなら確かに違反なのかもしれない。
だがちょっと待ってほしい、そんなものは時と場合によるのではないか。
まず、所属すると社会的な権利が剥奪される団体というものがある。暴力団と、暴力での政府転覆を図る過激派政治組織だ。
もし公人がそういった団体と関係を持っていることが発覚したら、所属もしているかどうかの確認は当然しなければならないだろう。
仮にそんな団体が宗教の皮を被ったとしたら、所属と信仰がほぼ不可分になり、そうなったら憲法によって信仰を問えないので所属も問えなくなるというのはおかしな話だ。(ご丁寧に先ほどの解説に、間接的でもダメと書いてある。)
また、そもそも統一教会は霊感商法もさることながら、日本人を悪魔(サタンの末裔のエバ)だと位置づけ、韓国に服従すべき存在としてその富を奪うことを教義に内在させているレイシズム宗教であり、そこらのカルト宗教とはわけが違う。
統一教会の弾圧は宗教差別だ、ネオナチだと騒いでいる人もいるが、特定の民族を敵視する団体という点でナチスなのは統一教会側である。
そして敵愾心は日本人に向けられているのだから、日本の政治家が統一教会と関係を持つということは、イスラエルの政治家がネオナチと関係を持つこととほぼ同義である。
イスラエルでネオナチとの関係を疑われた政治家に、あなたはナチスの思想を支持しているのか、ネオナチ団体に所属しているのかと問い正すことは至極当然だ。
ナチスは政党だから聞いてもいいが、統一教会は宗教なので聞いてはダメなどという論理はありえない。
もし信教の自由の原則がそういったことを妨げるというのであれば、憲法20条の解釈は改められるべきだ。
憲法9条の解釈を変えて自衛隊を作ったように。
信教の自由が守るのは、オウムだろうとKKKだろうとどんな宗教でも社会の片隅で信仰することができる権利までで、そんなおぞましい宗教が日の当たる場所で他の宗教と同列に扱われ宗教法人としての特権を享受し、国会議員が堂々と信仰・関係できることまで含めてよいものではないだろう。
おぞましい宗教の信者が一か所に集まって住んで信者の議員を送り出す権利はあるが、おぞましい宗教との関係を疑われる公人たる国会議員に信者かどうかを確認する権利も、当然我々にあってしかるべきだ。
おぞましいの線引きが恣意的にされる危険性があるから、なんでもかんでも平等だというのはあまりにも思考停止が過ぎる。
前例にとらわれず、フランスの反セクト法などのように、必要な線引きの方法を考えていく努力が必要なのだ。
いかなる線引きもしてはいけないという「ニーメラー論法」は詭弁である。
…だから、たとえ全会一致だとしても、政府によるどんな排除も許してはいけないという論法だが、そんなものは結局ただの開き直りだ。
我々に必要なのは、前例による失敗を学びつつ、本当に排除すべきものとそうでないもののラインをしっかりと見極めていくことだ。
また失敗してしまうかもしれないが、そうやって試行錯誤を繰り返していくことでしか社会を良くしていくことはできない。
すべてが許されるのであれば無法状態と同じだ。
もう一度言うが、統一教会は日本人を悪魔だと位置づけその富を奪うことを教義に内在させているレイシズム宗教であり、そこらのカルト宗教とはわけが違うのだ。
私は別に打越議員の質問自体について、よくぞ聞いたと喝采しているわけではない。このような物議を醸す形でこの質問をしたところで特に得られるものは見当たらないし、悪手であるといえばそうだろう。
ただそれでも彼女の質問に対する指摘については、違和感を覚えずにはいられない。彼女の質問は別に憲法違反ではないと考えるし、どうしても違反だとしたらその解釈を変えていくべきだ。
信教の自由の背景をよく知っている人からすれば浅はかな考えに見えるのだろうが、勉強を頑張った人は学んだことを神聖視しすぎるきらいがあり、時に一般感覚から乖離する。
業界の常識は世間の非常識という言葉もよく聞く。
あるリベラル学者曰く、法律と人権をしっかりと学べば死刑反対派になるそうで、リベラル勢はそれを含め犯罪者に甘い施策を支持しがちだが、日本の世論の8割は死刑を支持しているのが現実だ。
今回の保守派は、自由と民主主義を学んだ結果、宗教に関してそれと同じ状態になっているのではないだろうか。
全員が狂って見えるときは、自分が狂っている可能性が高いのだ。
打越議員の質問はこれまでの信教の自由の考えから一歩踏み込んだものであることは確かだが、それはいわば大相撲舞鶴場所において土俵に女性看護師が踏み入った一歩のようなものだ。
土俵が女人禁制であることは、相撲ファンなら常識なのかもしれないが、一般人にとっては知ったことではないし、常識的に考えて人が倒れた時にまで及んでそんなことを言っている場合ではない。
先ほどの死刑の例と同様だが、今回の保守派の皆さんはこのどんなときでも女人禁制の重みを振りかざす融通の利かない行司と同じ状態なのではないか。
今の信教の自由の考えに至るまでに、庶民には知りえない深い議論と研究の積み重ねがあることはわかる。
しかし、得意げにその重みを持ち上げて無知な庶民を押さえつける前に、さらに新たな積み重ねが必要な時が来た可能性を、少しは考えてみてもいいのではないだろうか。
追伸:テロに屈しない原則への疑問についても書いておりますので、ご一読いただければ幸いです。
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