酒と電波とマスクと戦争 ~マスクは二度と外せない?変われないこの国の病理~
いつになったらマスクを外せるのか
10月3日、岸田首相が、屋外でのマスクは原則不要である旨の表明を行った。
しかし「近くで会話をしない限り」などの条件が付き、結局のところ灼熱の真夏に熱中症という別の危険に押されて渋々発表した内容と大きくは変わらず、マスクを不満に思う人に対するパフォーマンスのようにも見える。
他に、全数把握の見直しや入国規制の緩和などは徐々に進んでいるが、ことマスクに関しては街行く人々のほとんどが相変わらず着けており、状況の変化への気配は感じられない。
むしろ、エリザベス女王の国葬と対照的に安倍元首相の国葬に参列する外国要人にマスクを強制したり、この時期にマスクをしていない人を宿泊拒否できるように旅館業法を改正したりと、終息から逆行さえしている。
この2年半、マスクを着けないことは「ダメなこと」であると散々喧伝されてきた。
この国の国民は、一度「ダメ」とされたことについて、時勢が変わろうと「やっぱりOK」と判断することが非常に苦手であり、これまでも苦々しい「実績」がある。
酒
その最たる例が飲酒可能年齢である。
日本ではこれまで飲酒可能年齢を「成人」と定めていたが、今年から成人年齢が20歳から18歳に引き下げられたにも関わらず、飲酒可能年齢は従前の成人年齢である20歳に据え置かれている。
もともと20歳になるまで飲酒ができない国は日本くらいのもので、ほとんどの国では昔から遅くとも一般的な成人年齢である18歳になれば解禁されている。
18歳より前であったり、ビール等のアルコール度数が低い酒あるいは保護者同伴であれば15歳程度で可能になり、18歳になれば全面解禁といった段階性を採用していたりする国も多い。
成人年齢を引き下げる理由の一つが「世界の潮流に合わせる」ということらしく、それであれば当然「成人」とされていた飲酒可能年齢も自動的に引き下がって世界と同じになるのが筋なのだが、そうはならなかった。
高校卒業したての無垢な学生が悪徳業者の餌食になる危険性の増大は許容されても、彼らが先輩と一緒に健全に飲酒をして交流を楽しめるようになることは全力で阻止された。
今までメディアで20歳未満の飲酒事案を散々批判してきた手前もあり、「やっぱりOK」とする判断はどうしてもできなかった。
被選挙権以外のすべての権利が付与されることを意味していた従来の「成人」の概念を捻じ曲げてまで、「これまでダメだったものは何があろうととにかく永遠にダメ」と言い続けることが優先されてしまった。
電波
もう一つ、電車の優先席における携帯電話問題がある。
どの鉄道会社の電車でも「優先席付近では、混雑時には携帯電話の電源をお切りください」という注意書きがされている。
そこに理由は書かれていないが、多くの人は携帯電話の電波による心臓のペースメーカーの誤作動を防止するためということをなんとなく聞いたことがあるのではないだろうか。
由来はその通りである。ただ、そうであればどの国に行っても同じ注意書きがあってもおかしくないはずだが、日本以外の国で同じような注意書きを見ることはないだろう。
正確な理由を説明しよう。
現在の携帯電話の電波は4Gと5Gである。一昔前は3Gであり、さらにその昔は2Gであった。
この2G電波については、確かに携帯電話からの電波がペースメーカーを誤作動させる可能性が微粒子レベルで存在することが指摘されていたが、結局そのような事件は世界中で一度たりとも発生せず、日本においては2012年に停波となり今はもう使われていない。
そして3G以降の電波については誤作動を引き起こすような出力は大幅に低くなり、ペースメーカーも対電波仕様に変わったことから、誤作動を引き起こす可能性が実質的に無いことが科学的に証明されている。
2012年以降、一応見直しは行われた。
しかしその結果は、それまで「電源をお切りください」だったものが、「混雑時には電源をお切りください」となっただけであった。
偶然私は昨年「障害がある人への配慮研修」というものに参加したのだが、その中にまさにこの優先席で電源OFFの話が含まれていた。
さすがにペースメーカーが誤作動する可能性の話はもう言えず、科学的な話は一切伏せて「気にする人がいるので配慮してください」と、ぼんやりした形でこの措置の盲目的な継続が推奨されていた。
百歩譲って先に挙げた飲酒については、健康への悪影響や泥酔者のトラブル、事故等が実際に存在しているため、年齢を引き下げたことによって責任を問われたくないという心理があることはわかる。
しかしこの電波の場合、もうリスクは事実上無く、今となってはペースメーカーをつけている人も携帯電話を使っているわけで、むしろ余計な注意書きがトラブルの元になっている。
つまるところ、問題が解消されてもどうしても考え方を変えられないという人に配慮して、一度ダメとしたことはとにかく何らかの形でダメと言い続けなければならない、というのがこの国の基本方針のようである。
もっとも、優先席で電源OFFのルール自体はスマホの普及も相まって最近ではなし崩し的にほぼ有名無実と化してはいるが、逆に言えばそんな状況になってもなお、たった1行を削除することができないのがこの国ということだ。
いわんや、感染症の分類の2類から5類へ引き下げというのは、これだけ騒いできた新型コロナがもう問題なくなりましたと手のひらを返して言うことで、これまでの様々な「実績」を見るにそこに至る道は非常に険しいと考えざるを得ない。
マスク
険しいことは険しいが、5類への引き下げ自体はそのうち行われるとは思う。しかし、その時セットで5類のウイルスに対する感染対策レベルの「引き上げ」が行われる気がしてならない。
5類であっても引き続き人が集まるところでは念のためマスクをした方がよいなどという方針が、「専門家」の助言を踏まえて盛り込まれる流れが容易に想像できる。
携帯の電波と同様な流れで、ウイルスを気にする必要がなくなったとは、マスクが不要になったとは、この国では未来永劫言えない可能性が低くない。
そしてこの国民についても、5類に引き下げられたからといって「よし、コロナが終わった!マスクを外そう!」という判断ができるとは思えない。
5類に引き下げようが何をしようがウイルスが無くなること自体は決してないため、終息というのは最終的に雰囲気の問題である。
欧米人がマスクを外しているのはウイルスが無くなったからではなく、従前どおりのただの風邪に戻ったと皆が判断してもう気にしない雰囲気になったからである。
しかし日本人は他国民と比べて神経質でゼロリスク志向が強いため、いつまでも考え方を変えられずコロナを気にし続ける人が多い。
その上同調圧力も強く、うっすら考え方が変わった人も周りの目を気にして皆がマスクを外せない。
だからいつまでも新型コロナが終息する雰囲気が醸成されない。
雰囲気が醸成されないから、やはりコロナが気になったり周りの目を気にしたりしてマスクを外せない。
だから雰囲気が…というコンフリクトに陥ってしまっている。
戦争
なお、過去に一度「ダメ」とされてなかなか変えられなかったが、最終的に変えられたものがある。ずばり「外国に屈すること」である。
日本中がアメリカ軍に爆撃されて焦土になってもなお、多くの日本人は屈することなく徹底抗戦を続ければ最終的に戦争に勝てることを信じ、窮乏生活と無意味な竹槍訓練などに勤しみ、それを止めることは「ダメなこと」と思い続けていた。
それを疑う者は「非国民」として蔑んで弾圧していた。
いつかコロナに勝てることを信じ、自粛と過剰な感染対策に勤しみ、それに反してマスクをしない人のことは白い目で見る今日の日本人と瓜二つである。
その時はソ連の参戦からの鈴木貫太郎首相の機転と昭和天皇の聖断によってなんとか止められたわけだが、つまり今回のコロナ騒動及びマスクのコンフリクトについても、それくらいのレベルのことが無いと打ち破ることができないのかもしれない。
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