煙草とエロと文学
人間は、いや、いまの人間は、どん底に落ちても、丸裸になっても、煙草を吸わなければならぬように出来ているのだろうね。
太宰治
煙草を辞めようと思うたびに、私はいつも何かしらの理由をつけてしまう。「今は忙しいから」「ストレスが溜まっているから」「一本くらいなら問題ない」。身体に悪いことは分かっているのに、なぜかやめられない。手持ち無沙汰な時間に煙をくゆらせると、思考がまとまるような気がする。落ち着きたい、考えたい、逃避したい――それらのすべての言い訳が、喫煙という行為を正当化してしまう。
性欲に関しても、同じような矛盾を抱えている。性は生物の本能であり、種の保存のために必要な衝動だ。だからこそ、つい理性よりも欲望を優先させてしまうことがある。「これは仕方のないことだ」「人間だもの」「お互いに合意の上であれば問題ない」と自らを納得させながら、多くの人と身体を重ねる。しかし、その後にふと虚無感に襲われることがある。快楽を求める行為が、必ずしも満足を生むとは限らないからだ。
そして文学。私は文学を読むことが人間としての成長につながると信じている。偉大な作家の言葉に触れ、登場人物の生き様を追体験することで、自己を深められると思っている。しかし、気がつけば時間を浪費していることに気づく。「もっと有意義なことがあったのではないか」「ただの娯楽にすぎなかったのではないか」と自問自答する。文学を読むことは知的な行為であるはずなのに、時には単なる逃避行動になってしまうこともある。
煙草とエロと文学。どれも、理屈では不要とわかっていながら、つい手を伸ばしてしまうものだ。それらは快楽であり、癖であり、時には自己正当化の道具となる。そして私は、これらを手放すことができない自分を、また何かしらの理由をつけて許してしまうのだ。