1.良い人という評価は悪いことか
訃報を知って驚きを禁じえません。
マモルとは大学時代、学部もサークルも一緒でした。私も公立高校卒業後に一浪して予備校生活を送ってから入学した同期です。年賀状のやり取りは五年ほど前にしたのが最後だと思います。自分の親、義父母が次々と亡くなり喪中が続いたこと。子どもたちも成長して家族写真など撮影しなくなったことなどで家族の年賀状を作らなくなったのです。スマホ普及もあってLINEで新年の挨拶をするのが日常となりましたので。
社会人生活も35年となると、50代後半。もう定年を見据えて人生設計しなくちゃなりません。私には子どもが三人いて、上の二人は社会人で巣立ちましたが、末っ子はまだ大学2年生。あと2年は教育費にお金も掛かります。しがないサラリーマンの自分の小遣いなんか微々たるものです。ボーナスだってここ10年くらいは減ることはあっても増えることはありません。
マモルは子どもがいなかったし、奥さんも仕事をしていたから悠々自適に暮らしていたんじゃないかな。毎年の年賀状には夫婦で仲良さそうなツーショットをよく載せていたことを憶えています。新婚ならともかく、結婚20年以上経っても、そのスタイルを変えないのは仲がいい証拠ですよね。うちの妻とのツーショットをひと様に見せるなんて考えられませんから。
大学生活を送ったのは80年代前半のバブル全盛期でした。世の中全体が熱気を帯び浮かれていて、アルバイト先も引く手あまたでした。サークルはオールラウンドスポーツっていうのですかね。スキーやテニス、ビーチバレーやゴルフ…なんでもやりました。専門的な何かを究めるサークルではなく、わいわい集まって飲み会して、かわいい女の子といい感じになりたい…ってのを目的にしたナンパなサークルでした。いえいえ下心ではないですよ。そんなフレンドリーなサークルが当時は学内だけで500以上はあったと思います。あの大きなキャンパスの中で、どこかのサークルに所属していないヤツを探す方が難しかったでしょう。
予備校生活を1年送って念願の大学生になったわけですから、サークルだけでなく学生生活全般が弾けてました。授業なんか真面目に出ていたかな。試験前は誰かのノートが回ってきましたからテスト勉強らしいことはしましたけれど。マモルも同じでした。どちらかというと口数は少なく、いつもニコニコとしていて誰かの傍にひっそりと立っていた印象があります。誰に対しても和やかで控えめ。酔っぱらうと男同士で喧嘩することもあったのに、彼だけはそういうトラブルは皆無。酒が弱かったから常に正気で、泥酔した友達を介抱していた側でした。
何か変わったことって言えば、そうだなぁ。強いて言えば就活の時かな。まだバブル弾ける前で、求人も売り手市場。私は金融とメーカーを中心に考えていましたけれど、マモルは「どの業界もよくわからないし、就活を早く終えたいから最初に内定もらったところに行く」と言ってました。その通りに老舗の製造業から内定もらって、他の学生がいくつも内定をもらって海外旅行だステーキ屋だ飲み会だと浮かれていた一方で、すっかり終えて黙々とアルバイトをしていました。
なんて無欲なんだろう…そう感じたのを憶えています。頭も悪くないし、人当たりもいい。それなのに望まない。何かを選ぶときも結構その片鱗はあったと思います。本当にそれでいいのかよ?って選択をする。恋愛も奥手だったはずです。もてないわけじゃないけれど、自分からガツガツ行くタイプではなかったですからね。奥さんも2つか3つ年上でしょう?相手にいろいろ舵取りしてもらえば黙って従うタイプ。女性にとっては扱いやすくても、男として頼りになるかどうかは別です。しかし仲間の中ではほんと良いヤツでした。でも、その良さが悪くも評価されてしまうのが、今の世の中なんじゃないかな。悔しいですけれど、同じサラリーマンとして、同世代として何とか助けられなかったのか。そんなに思いつめていたのなら早く話を聞くだけでもしたかった。私はまだ死ねません。先述した通り、末っ子がまだ学生ですし。しかし明日は我が身だと思いながら定年まで過ごします。もっとも私の場合は、ツライことがあるとすぐ言葉にして飲んだくれちゃうから。何事も胸に仕舞いこんで黙っていられるのが、一番堪えるんじゃないかな。もう会社でもゴールが見えている立場はお荷物なんです。だから、開き直ってのらりくらりと交わしていきますよ。それが自分を守ることでもありますから。(58歳/大学時代の友人で某メーカー勤務)
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