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人の山をまぶしく見上げながら、自分の山を登る
才覚が乏しいながらも細く長く執筆を続けたいと思っているので、生活費のため外で働くし、長い人生を見据えて家族やときには友人を優先にする時間も取っていくことはすごく大事だとも思っている。大事な人間関係を良好に保つには、定期的なメンテナンスはどうしても要るのだった。
自己実現はもちろんしたい。でも実人生を守れてこその夢だから、とも同時に思う私だ。
デビューしてから「自分にとって一番大切なことは何だ? なんだなんだなんだ?」と考える時間が増えた。
たぶんそれは、鬼か蛇か? って問いたくなるほど、才能が爆発しているプロ作家さんをたくさん目の当たりにしたから。文芸界には本当に「れ、レベチ……」と言いたくなるほどの才覚を備えた作家さんがたくさんいて。素晴らしいなあと思うし、自分の小ささも実感する。
私は、小説が大好きだ。でも、まだまだ上手く書けない。自分の理想とするレベルはあるけれど、高すぎてなかなか届かない。
たぶん私がこの先考えなければならないのは「書けない側」なりの生存戦略だ。そして小説との向き合い方だ。
もちろん、良い作品を書きたいし、書けるようになりたい。でも、自分のライフハックを「そもそも書ける人」の人生のそれと混同したらいけない。自分の書き方も、自分に合っている執筆方法も、たぶん何もかも違うから。
いっこいっこ、請けている仕事――いずれ本になる仕事には、自分の命のかけらを込めたいと、冗談じゃなく思っている。そのために、執筆仕事のみで生活していく人生を選ぶことを、だいぶ前に放棄している。
幸い、外で働くことは好きで、接客で人と関わるとますます元気になる。反対に、家にずっとこもっていると、鬱気味になってくる。元気になる働き方も同時に選び、執筆と兼業とするのは私の場合、決して悪くない選択なのだろう。
自分にとって重要なことは、たぶん「承認欲求の完全に外に出ること」なのだと思う。承認欲求がまだあるうちは、少しだけ認められたくて苦しい。
でも、体がどこも痛くなくて、よく眠れて美味しくごはんが食べられて、屋根の下で寝ることができる環境と体で、さらに小説を自由に書ける人生の、なんと幸せなことかと思う。
私は私の山に登る。その山の中腹からは、ほかの高くてきれいな山々がたくさん見える。そのそびえる山たちをまぶしく見上げながらも、自分の道をゆこうと足を進める。
「うまく書けない側」の私が、この三年間無理矢理書こうとがんばって、うっかり小説を書くことが辛くなりかけた時期が何度もあった。小説そのものを嫌いになったりしたら、本末転倒である。
言葉のシャワーに体を浸されていくことが何よりも幸福な時間だと、幸い気持ちを立て直せたので、現在執筆に向き合う心は凪いでいる。
「小説を書けるようになりたい」と、少女時代に感じた白くて強い光みたいな気持ちをずっと忘れていないし、この先も忘れないだろう。その気持ちはたぶん、私が人生で味わった、もっとも純粋で大切な想いなのだと思う。たとえ、あのとき願った高さに人生通して届かなかったとしても。
大人になった私は、自分の歩むペースを許容しつつ、やはり歯痒くも思う。それでも「生活」という荷物を背負って、時折つまずきながらも「書いていく」という自分の山を登っていく。そのことに、もう迷いはないのだった。
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