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【小説】祖母の指輪
小さい頃からおばあちゃん子で、鍋に菜を入れたり庭仕事をしたりする祖母のかたわらに、私はいつもくっついては甘えていた。しわが深く刻まれていても、祖母の手は美しかった。そんな祖母の細い右手の薬指には、いつでもアメジストの指輪が、きらきら光っていた。
「おばあちゃんの指輪、きれいだねえ。きれいだねえ」
私は何回でも言った。幼い私の目には、祖母の指輪はお話で読んだ王族貴族の宝物のごとく映っていた。祖母はあったかくて気風のいい人だった。八十代になってもてきぱきと家事をこなしていたし、もう少し若い頃は市の民生委員を長く務めていて地域に貢献もしていた。
「侑子が大人になって、私が天国に行く頃に、この指輪は侑子にゆずろうかね」
祖母がそう言うたびに、大切な指輪をゆずってもらえる相手として自分が選ばれた誇らしさと、愛する祖母を亡くしたくない思いで、胸はいつもふさがれた。
自身が六十代のころにつれあいの祖父を亡くしてから、祖母は「ずっと始めたいと思ってたんだよ」と、本格的に家の裏で庭づくりを始めた。祖母はお気に入りの庭木や花を園芸店で買い求め、丹精こめて世話をした。
いつだったかテレビで、英国のイングリッシュガーデンの特集を家族で見たことがあった。「おばあちゃんの庭も、ぜんぜん負けていないよね」と息巻く私をよそに、祖母は「庭づくりは勝ち負けじゃないんだよ」とただ笑っていた。「私が楽しめて、通りがかりの人がたった一人でも、良い庭だと思ってくれたら私はそれだけでいいんだよ」とも言った。
祖母の庭にはいろんな植物が季節ごとに咲いたが、私はアメジストと同じ色をしてキキョウが咲き乱れるのを見るのが好きだった。初夏から秋の初めにかけて、祖母の庭は一面の紫にいろどられる。
「おばあちゃんの指輪の石と同じ色だねえ」
私がそう言うと、祖母は真面目な顔をしてうなずいた。
「まるで、キキョウの花からこの石に色をうつしとったようだと、私も毎年思うんだよ」
私と祖母の誕生日は一日違いだった。祖母が九月二十日生まれで、私が九月二十一日生まれ。祖母と孫という垣根を越えて、私たちはある意味、実の姉妹のように仲良しだったのかもしれない。
私は大学卒業に祖母のいる実家から離れ、実家の隣県で就職することになった。仕事もそれなりに忙しく、祖母に会いにいけるのは二ヵ月に一度くらいの頻度になった。それでも、私が帰省すると、祖母はお手製の漬け物や常備菜をたくさんちゃぶ台に並べて歓迎してくれた。そんなときはご飯をおかわりして食べて、祖母を喜ばせた。
私が入社五年目の八月の半ば、母から「祖母が倒れた」という一報が入った。帰り支度もままならないまま、車を飛ばして祖母が入院したという病院へ駆けつけた。心臓発作だったようで、危篤状態が一日半続いたあと、祖母は息をひきとった。
うまく泣けなかった。祖母がいなくなってしまったことが、信じられなくて。感情が死んだように動かない。母や父から何度も「侑子、大丈夫?」と声をかけられたが、ぎくしゃくとうなずくことしかできなかった。祖母をお棺に納めるときになって、はっとした。母に訊いた。
「ねえ、おばあちゃん、指輪してないね」
「指輪?」
「アメジストの。ほら、いつも薬指につけていた」
「ああ、そうね。そういえばどうしたのかしら」
手伝いに来てくれた人も、家族も、みな指輪のことは知らないという。祖母から譲り受けるつもりでいた、紫の石の指輪。その価値がどうとかそういうことはどうでもよくて、祖母がいっとう大切にしていたものを、私が貰いうける、そのプロセスを大事にしたかったのに。指輪をあげるという約束を果たさないまま、祖母は逝ってしまった。
お通夜もお葬式も、出席していたのに記憶がほとんどない。気が付いたら火葬場にいて、叔母から渡された白い花を棺の中の祖母の顔の周りに置いていた。涙はこのときも出なくて、倒れないように立っているだけで精一杯だった。
あるじを亡くした祖母の庭に、火葬場から帰って水やりをした。私は明日には、職場のある隣県に戻らないといけない。父や母に、この庭の手入れがちゃんとできるだろうか。できなければ、この庭は放置され、いずれは草ぼうぼうになるのかもしれない。
母に、遺品整理をしてアメジストの指輪が出てきたら連絡して、と言って、私は翌朝、車で隣県へと戻った。明日から仕事だが、手につくだろうか。テレビをつけてみたが、みんなが大笑いしているバラエティ番組がただうるさくて、消してしまった。そして私はベッドにつっぷして、そのまま寝てしまった。
祖母の死から一か月が経って、悲しみは薄れないままだけど、私は仕事仕事の日々にまた慣れ始めていた。実家に電話をするたびに、母に「指輪は見つかった?」と聞いたけれど母は「いいえ」と答えるばかりだった。
季節は九月の半ばとなった。もうすぐ私の誕生日が、いやその一日前に祖母の誕生日が来る。今年はもう二人でお祝いできないんだ、と思うと胸がふさがれた。そんな折、突然に私のもとに知らない番号から電話があった。
「小里侑子さんの携帯でよろしかったでしょうか?」
落ち着いた男性の声音だったが、誰だかわからなかったので緊張しながら「そうですが」と答えた。
「こちら、割烹料理のさくら橋と申します。小里ふさ子さんにお電話がつながらなくて、もう一名のご予約の小里侑子さまのお電話も書いてありましたので、こちらにお電話させていただきました」
話がなんのことだか見えない。
「あの、祖母は、小里ふさ子は先月亡くなりました」
電話の主は一瞬言葉をなくしたが、しばらくして返答があった。
「――そうだったのですね。お悔やみ申し上げます。あの、実はふさ子さんから、九月の二十一日に、当割烹のご予約を二名でいただいていて、直前に一度メニューの確認のお電話をいただきたい、ということでしたので……そうだったんですか」
「祖母が、私と二十一日に予約をしていたんですか?」
「はい、そうです。――ご予約、どうされますか」
祖母はきっと私と誕生日祝いをするつもりで、何か月も前から予約をしてくれていたのだ。いまさら二名が一名になると、向こうも不都合だろう。
「あの、それでは、祖母の代わりに母を呼んで、二人でお伺いします」
「承知いたしました。お待ちしておりますね」
電話は切れた。祖母からのサプライズがこんな形であるとは思わなかった。割烹を調べてみると、実家からわりと近い。ちょうど二十一日は土曜日なので、母といけそうだ。驚きながらも、祖母らしいな、と私は微笑んだ。
九月二十一日は朝から空が晴れ渡っていて、私は自分の車に母を乗せて「割烹料理 さくら橋」へと向かった。店に着き、通された二名用の座敷はこぢんまりとしていたが清潔で、替えたばかりの畳の匂いで気持ち良かった。
前菜として小松菜ときのこのお浸し、サーモンマリネ、ごりの佃煮が出た。どれも美味しく、箸がすすむ。祖母の思い出話をしながら、ゆっくりと食べすすむ時間は寂しいけれど幸福だった。お造り、蒸し物、揚げ物、煮物、と食べていき、最後におそばが出る。満腹の腹をおさえていると、しずしずと着物姿の女性がまた何やら運んできた。
「もう食べられないよ」
そう笑うと「デザートでございます」と女性も上品に笑った。母に出された普通のデザートと、私の目のまえに置かれたものが違う。母のは皿のうえにゼリーが載っているが、私のほうは大きな笹の葉で何か小さいものをくるんである。
「今日お誕生日だそうですので、特別にこしらえました。笹の葉をとりのけてみてくださいませ」
そう言われるがままに、私は笹の葉の先を結んであるひもをほどき、緑の葉を注意深く指先を使い開いてみた。ころん、と硬い音を響かせて、そこに転がったもの。
「おばあちゃんの指輪!」
どうして、と顔を上げた私に、女性は微笑んだ。
「ふさ子さん、七月に当店のご予約をされていったんですけど、その際に、孫に指輪を九月の誕生日のこの席で渡したいと思うのだけど、何か面白い渡し方はないか、ってご相談されていったんです。それで、一緒にこの方法を考えさせていただきました。ふさ子さん、指輪のサイズを、お孫さん用にお直しされていたみたいなんです。それで、指輪の修理をしたあとは、指輪は直接この店に届くようになっておりました」
みるみる、私の目に涙があふれてとまらなくなった。おばあちゃん。――おばあちゃん。なんておばあちゃんらしいんだろう。茶目っ気があって、人をびっくりさせるのが好きで、愛情にあふれていて。
「――指輪、はめてみたらどうでしょうか」
女性の言葉に、私は涙もうまくぬぐえないまま、アメジストの指輪を祖母と同じ右手薬指にはめてみた。あつらえたようにぴったりと、その指輪はおさまった。
「侑子、とっても似合うわ」
向かいの席で母も涙ぐんでいた。私もそのまま、肩をふるわせてなきくずれた。ずっと泣けなかった分、思いっきり泣いた。涙がようやく止まったころに、さっきの女性が「こちらが食べる方のデザートです」と母と同じゼリーを運んできてくれた。甘夏のゼリーは、泣きすぎてほてった顔を、少しだけ冷ましてくれた。
隣県の自宅に帰り、アメジストの指輪をそっとはずして、アクセサリーケースにしまった。会社にはさすがにつけていけないけど、アクセサリーケースには大切なものばかりつめてあるから、その仲間に祖母の指輪も加わった。
年を重ねたとき、祖母のようでありたいと思った。祖母の背中を見ながら、この先前を向いて歩いて行きたい。実家の庭も、月に一度は帰って、私が手入れをしよう。きっといま、祖母の庭では名残りのキキョウがきれいに咲いているはずだ。――そう、このアメジストの輝きとそっくりな色で。
noteの小説連載が書籍化しました。経緯はこちら。
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