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【連載小説】優しい嘘からはじまるふたり 第1話「梅が運んだ出会い」

花のなかでもいっとう好きな梅を、今年も時季を逃さず見ることができた。


冷たい風に春の気配が少しずつ混ざってきた二月下旬、君嶋遥は祖母の靖江と一緒に、石川県小松市の芦城公園で咲きほころんだ梅の花を見ていた。薄青い空に向かって伸びた枝に、紅梅や白梅が、可愛らしく花をつけている。


スマホで写真を撮りながら遥は、この写真を静岡に住む両親にも送ってあげようと思った。むろん、静岡のほうが暖かいから、梅は向こうのほうが早いだろうけど、家族全員が小松に住んでいたとき、一緒に梅を見に行った公園の写真は、父も母も喜んでくれるだろう。


遥は今現在、二十四歳になるが、祖母の靖江と一軒家に二人暮らしだ。近所にある弁当屋の店員として働いている。会社員の父は転勤で昨春から静岡に行き、母もついて行った。遥は成人しているし、弁当屋の仕事も好きだったから祖母と一緒に小松に残ることにした。今日は休日で、例年より暖かいこともあって祖母を連れて歩いて梅見に来たのだった。


七十二歳になる靖江は、少し足が悪いけれど、かかりつけの医師からはリハビリとしてときどき散歩に行くことを推奨されていて、遥が休日の日には、よく二人で近所をぶらりとするのが定番となっていて、芦城公園もそのコースとしてよく利用していた。


二人で並んでベンチに座り、満開の梅を眺める。穏やかな性格の祖母と過ごす時間が遥は好きだった。吹き抜ける春風に、肩までゆるくウェーブをかけた髪を揺らされながら梅を楽しんでいると、祖母がハンドバッグから最中の個包装を取り出した。水筒にお茶も持ってきてあるので、二人で包みを開けて最中を頬張る。


「おいしいねえ」
「ほら、遥ちゃん、ほうじ茶もどうぞ」
「おばあちゃん、ありがとう」


お茶であんこを飲み下しながら、遥が空を舞う鳥たちに目をやっていると、靖江がふいに言った。


「遥ちゃんとこうして一緒に暮らせるのも、あとどのくらいかねえ。そろそろ、お嫁に行ってしまうかもしれないからねえ」


遥はふきだした。


「おばあちゃん、気が早いよ。私、彼氏だってずっといないんだよ?」


遥の言葉に、靖江は首を横に振る。


「若い人の成長は、いつだって早いからね。いつでもそのときが来ていいように、心の準備をしておくのさ」


おやつタイムを終えたあと「さて帰ろうか」と言って遥は立ち上がった。つられて靖江も立ち上がろうとしたところ、強い突風が吹いて、靖江がよろける。


「おばあちゃん!」


遥は靖江を支えようとしたが、間に合わず、靖江は尻もちをついた。そのまま、痛そうに顔をゆがめている。いつも靖江がついている杖は、ベンチの横に転がった。


「大丈夫? 立てそう?」
「どうだかね」


靖江は言葉だけは強がっているが、明らかにもともと悪い足をさらに傷めたようだった。公園内を歩く人たちがちらちらとこちらを見てくるが、皆声をかけるのはためらうのか、足早に歩き過ぎていく。今日は散歩のつもりで来たので、遥の自家用車は自宅に置きっぱなしだ。

家に帰って、車をとってくれば靖江のかかりつけの総合病院まで乗せていけるが、靖江を今一人にするのは気が引ける。かといって、救急車を呼べば大ごとになってしまう。


遥がどうしようかうろたえていると、ふいに柔らかくて低い声が降ってきた。


「あの、大丈夫ですか?」


祖母のそばにかがみこんでいた遥が顔をあげると、遥と同年代くらいの紺色のシャツを着てチノパンを穿いた男性がこちらを心配そうに見ていた。少し面長の顔に、すっきりとした一重まぶたをしていて、黒髪が半分だけ額にかかっている。肩からカメラを提げていた。


「お祖母さん、立てないんですよね。お姉さん、あなたのお車まで、僕がおぶいましょうか?」


「すみません、でも、今日車で来ていなくて」
「だったら、僕の車を出しますよ。病院へ、早く行った方がいいから」
「あの、でも」


初対面の人にさすがにそこまでは悪い、と遥がためらっていると、男性は慌てたように、ポケットを探り始めた。


「あ、僕の素性がわからないと、心配ですよね。あの、これ、名刺です。この近くの佐々木鉄工所というところで溶接の仕事を普段しております。もっとも、今日は休日なので、梅を撮りに来たのですが」


受け取った名刺には「樋口滋之」と名前が中央に書かれ、会社名と電話番号が記されていた。白地にグリーンのロゴが入った、シンプルな名刺だった。


佐々木鉄工所は、遥の勤める弁当屋の近くにある町工場だ。遥の弁当屋にも、よく作業服の人がやってくるから、もしかしたらこの人も弁当を買いに来たときに顔を見たことがあるのかもしれなかった。


「じゃあ、申し訳ないですが、お願いします。あとでお礼に伺います」
「そんなことは、今は気になさらなくても。とにかく、お祖母さんを病院に」


遥と滋之のやりとりを聞いていた靖江は「すみませんが、お兄さん、お世話になります」と言って、しゃがんだ滋之におぶさった。靖江は小柄でやせているから、そう重くはないと思うが、遥はとりあえず、自分たちの荷物と、滋之のカメラを持って、立ち上がって歩き出した滋之のあとについていった。


滋之は遥と靖江を総合病院まで送ってくれて、靖江の処置が終わると、二人を自宅の前までまた車で送り届けてくれた。


遥は丁寧にお礼を言い、滋之の車が去ったあと、手のひらの中の名刺を再度ていねいに眺め、フレアスカートのポケットにしまった。


「いいひとだったね」


家のなかで、台所の椅子に腰かけた靖江が、足をさすりながらぽつりともらした。


「うん、すごくいいひとだった」


遥はそう言ってシンクの前に立つと、蛇口をひねって手を洗い始めた。


翌朝、遥が弁当屋に出勤すると、店長の朝野が「君嶋さん」と遥を呼んだ。


「今日から、新しいパートさんが入ります。篠塚奈美さんという女性で、五十代のひと。レジをとりあえず教えてあげてね。今日の調理は私と牧田さんがやるから」


「はい、了解しました」


弁当屋で働いて、二年と五か月。遥はレジも調理も担当するが、今日はレジの日だった。場合によっては「若いから」の理由で配達にも行くことがある。とはいっても、前に勤めていたピッキングの作業員よりは、弁当屋のほうが、同じ体を動かす立ち仕事でも性に合っているように思える。


十時の開店までに、店内の清掃を終わらせようと思い、掃除をしていると、裏口から篠塚が現れた。


「君嶋です、よろしくお願いします」


遥が挨拶すると、篠塚は頭を下げた。茶色に染めたショートヘアに、赤い三角巾をつけている。モスグリーンのエプロンは、制服といってもよいような、みんなそろいのものだ。


「レジ、使い方を教えますね。まず、こちらのラミネート加工したメニューの下に、バーコードがついていて、それを読むと、こうなって」
「たくさんメニューがあるんですね。覚えられるかしら」


そう言って、茶目っ気たっぷりに笑う篠塚は、付き合いやすそうで遥はほっとした。


「慣れていけば、大丈夫です。このエビ天丼とか、すごくおいしいですよ」
「へえ、食べてみたい。でももう君嶋さんみたいに若くないから、消化できないかも」


肩をすくめる篠塚に、遥も肩を揺らして笑った。


十時に開店時間を迎えて、二十分あまりが経ったころ、店の電話が鳴った。篠塚に、「まず私が出ますので、応対を聞いててくださいね」と言ってから遥は電話を取った。


『はい、キッチンさくらです』
『すみません、弁当の注文をしたいのですが、八人分、十一時半に取りに行って大丈夫ですか? 幕ノ内です、すべて』


『はい、お請けできます。取りにいらっしゃいますか?』
『はい、十一時半に社員が伺います』
『お名前とご連絡先をちょうだいしてよろしいですか』


『佐々木鉄工所の森下と申します。電話番号は、〇〇〇―××××―△△△△です。部下が受け取りに行くので、よろしくお願いします。あと、佐々木鉄工所で領収書切れますか』
『大丈夫ですよ』


答えながら、遥は「佐々木鉄工所」の言葉をついこのあいだ聞いたなと首をひねった。どこで聞いたのだっただろう。


遥は電話を切ると「幕ノ内八人前、十一時半に取りに来られるみたいです! よろしくお願いします」と厨房にいる朝野と牧田に声を張り上げた。


「そしたら、電話番を君嶋さんにまかせて、篠塚さんも厨房を覚えてほしいから、こっちに来てくれる?」


店長の朝野の言葉に、篠塚は「はいッ」と飛び上がると、厨房のほうへとあわてて入っていった。


時間までに弁当が出来上がるころには、遥は佐々木鉄工所をどこで聞いたか思い出していた。先日、祖母を助けてくれた滋之の勤め先だ。でも、電話をかけてきたひとは森下さんと名乗っていたし、まさか滋之が取りにくるなんてことは――そう思いめぐらしていたとき、店の自動ドアが開いて、男性が駆け込んできた。


「あ」
遥の口が、まるく空く。
「佐々木鉄工所の、樋口です。――あっ」


駆け込んできたのは滋之本人で、彼の口もまたぽかんと空いた。


「幕ノ内、八人前、ご用意しております」


言いながら遥は、今日の滋之が私服ではなく、佐々木鉄工所の作業服に身を包んでいることに気が付いた。


(――なんだか、樋口さん、作業服がすごく似合う?)


薄いグレーの上着には「佐々木鉄工所」と胸元に青い糸で刺繍が入り、紺色のズボンを穿いている姿が、すごくさまになって見えて、ついまじまじと見てしまってから照れて下を向いた。滋之は「領収書、お願いします。佐々木鉄工所で」と言うと、彼もまたはにかんだ笑みを見せた。


「お祖母さん、あのあと大丈夫でしたか?」


気づかってくれた滋之の言葉に遥も笑顔になる。


「はい、足、よくなってきています。あのときはありがとうございました」


「今日は会社にお偉いさんが来るので、キッチンさくらさんのお弁当を取らせていただきました。いつもは先輩が取りにくるのですが、ちょっと手が離せないみたいで、代わりに僕が」


「そうなんですね、お味がお気に召したら、またぜひお願いします」
「はい、そのつもりです」


会計を終え、自動ドアの向こうに、滋之の姿がだんだん小さくなっていくのを遥は見守った。


(もう少し、話してみたかったな)

そんな思いにかられる自分を、どこか不思議に思いながら。


早番の遥は、十七時には勤務が終わり、遅番のスタッフと交代する。スーパーに寄って、祖母に頼まれていたトイレットペーパーに小松菜、おやつ用のスナックを買い、運転して自宅へと帰る。

自宅の納屋兼車庫に、バックで駐車するのもだいぶ慣れたな、と思いながら、母屋へ続く引き戸を開けて「ただいまぁ」と言った。祖母はいつも夕食を作って待ってくれている。今日もお出汁のいい匂いがして、肉じゃがかな、と遥は見当をつけた。


食卓に料理の皿を並べ終わると、祖母がゆっくりと座椅子に腰掛けて口を開いた。


「遥ちゃん、さっきお母さんから電話があったよ。あとからかけて、って」
「ふうん。食べ終わったらかけるよ。なんだろう」


「あんたにかけていた入院保険が満期になったから、そのことで話があるって」
「そっかぁ」


祖母のつくる、少し濃いめの味の肉じゃがをほおばりながら、遥はぼうっとテレビに目をやった。テレビには、遥が以前からファンをしている俳優の男性がゲストとして出ていた。けれど、以前より食いついて画面を見る気になれない。遥の頭をちらちらよぎるのは、なぜか、数えるほどしか会っていない滋之のことだった。


遥は、めったに男性を好きになることはない。十九歳、二十歳のときに、高校の友人から何人か男性の紹介に遭ったが、どの人もぴんと来ず、結局交際を断ってしまった。

彼氏いない歴二十四年、は自慢にはならないことはわかっているが、それでも、なんにもひっかかりを感じない人と付き合ったりはできない性分だ。中学生のとき、うっすら数学の先生にあこがれていたとき以来に、気持ちが動いているようだと遥は感じた。

けれど遥は恥ずかしがり屋だし、こっそり心のなかで滋之のことを考えているだけで、それで十分気持ちが暖かくなるのだった。


滋之は、あれから四日に一度くらいキッチンさくらに顔を見せるようになった。いつも、森下という社員から「部下が行きます」と連絡があって、滋之が弁当を八人前取りに来る。

キッチンさくらの店長の朝野は「前と取りに来る人が変わったね」と言っていたが、遥はもう滋之の前に佐々木鉄工所のどの人が来ていたかを忘れてしまった。


夕食後、遥は静岡にいる母の順子に電話した。順子はすぐに電話口に出ると、ほがらかな声で満期になった保険について、遥に話し始めた。その用件が終わり、お互いの近況報告をしていると、順子が遥に言った。


「遥、なんだか声が明るいね。いいことでもあった?」
「いや、べつにないよ。春が来て気温が上がって動きやすくなったからじゃない?」


あわてて言いながら、いいこと、という響きから滋之のことをつい連想した遥は、その考えを頭から追い払った。


「なんにもないけど、今日はキッチンさくらの天ぷらにふきのとうが入ったよ」
「それはいいわねえ」


順子とたわいない話をしている最中、外から猫の鳴き声が一瞬して、消えた。野良の猫が、子猫を産んだのかもしれない、春だし。そんなことを思いながら遥は、順子との間に何か話題がないか、探し続けた。


※エブリスタでも同内容を連載中です。


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