ドーナツと痛みと(灰谷魚トリビュート)
https://note.mu/haitani/n/ndd65d429f09f
(この小説は灰谷魚さんの「半分泣いてます」のトリビュートです)
ホテルの白くて大きな洗面所で寝起きに顔を洗っていたら、右目のコンタクトが外れてそのまま流れて行ってしまった。眼鏡もないし、旅先なのに、片目だけの視力でどうやってうちに帰ればいいというの。コンタクトは排水溝の中に落っこちていって、下水道のどぶ水の中をたぷたぷと流れ、最後は海にでも出るのだろうか。さしだした愛がいつでも返ってこないように、私のコンタクトも、もう返ってこない。
私はため息をついて、携帯を手にすると、さっきまで同じ部屋にいた恋人に電話をかける。朝ごはんをいまコンビニまで調達しに行っているはずの彼は、すぐに電話に出た。
「ねえ、ミスド買ってきて」
「え、さっきコンビニの普通のパンでいいって言ってたじゃん」
「今ミスドが食べたいの。パーティーできるくらいたくさん買うのよ。あとバファリンも買ってきて。頭も痛いの」
「こんな時間に薬局開いてるかなあ」
「どっちも見つけるまで帰ってこないで」
そう告げるとぶちっと私は電話を切った。不満そうな恋人のため息だけが最後に聞こえた。
ホテルの真っ白いベッドの上で、食べこぼしながら、たくさんのドーナツをおなかいっぱいになるまで食べたい。ドーナツだけで、豪勢なパーティを朝からしたい。ああ、シャンパンも買ってきてっていえばよかった。朝から、酒とドーナツの日々。ついでにそのシャンパンで、バファリンを流し込めば、きっと素敵な気分になれるはず。
だって、バファリンの半分は優しさでできてるし、きっともう半分はそうだな、この浮世を忘れるための鎮痛作用でできてるに違いないのだから。
頭痛にバファリンが効くのではなくて、痛みにバファリンが効くのだ。その痛みは、身体の痛みだけではなくて、人生そのもののキズだらけの痛みにも。
私はこのさびれた田舎町に、ミスドなんてないこと知ってる。
まだ朝の7時なのだから、薬局だって開いてないことを知ってる。
それでも、私は確実に切実にドーナツとバファリンを求めていて、それくらいのスペシャルな欲望であってはじめて、なくしたコンタクトの痛みに拮抗できると信じてる。
半分見えない目で、朝の光を感じながら、私はけだるくベッドに転がって、恋人が愛想をつかしてもうこの部屋には帰らないことも半分期待しながら、もう一眠りすることにする。
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