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【短編小説】幸せな結婚概論

 私は今、テレビを見ながらビールを飲んで、2枚目の離婚届を書いている。
 離婚とは、自分や配偶者の人生を大きく揺るがすターニングポイントであり、今後の人生を左右しかねないビッグイベントである。
 それに使用する離婚届とは、とても重要で、且つ丁寧に繊細に扱わなければならない書類だ。
それは、私も十分承知している。
 十分承知しているのだけれど、面白いんだかつまらないんだかよくわからないテレビ番組を見ながらでも、グラスに大量の汗をかいたビールを飲みながらでも、考えなしに何だかスラスラと書けてしまう。
 2枚目、だからだろうか。
 先日ちょっと奮発して買った50型のテレビでは、今をときめくイケメン俳優と若手注目株と呼ばれている女優のドラマがやっていた。
とはいえ、私は普段テレビをあまり見ないので、このドラマがどんな内容なのか全く知らない。
しかも、今日は第3話目らしい。
 ところが始まって5分もすると、悪い意味での普遍的でありきたりな、世の男性の誰もがざわめくお顔の造形のお陰で、これまで何とか生きてこられた愚鈍な主人公と、日本を代表する大企業のイケメン御曹司とのサクセスラブストーリーだということに気づく。
 壁ドンをしながら「お前は俺の女だ。俺のことだけ見てろ。」と主人公に迫る御曹司。
 猿が日本語を話せたとしても使わないであろう、とてつもなく頭が悪くて安っぽいセリフを真顔で放っていてもくすりとも笑わず、いかにもこのセリフが自分の心からの言葉であるように振る舞うこのイケメン俳優は、ほんとにすごいなと心から感心する。
 でも、やっぱりいい男が言うと魅力的に見えるのだから不思議だ。
 この令和の時代に壁ドンってさすがにどうなの、とは思うけど。
 私はビールを一口飲むと、再度視線を離婚届に戻す。
 そして、夫の名前の欄に「和彦」と少々雑に記入した。


 夫の和彦は、決していい男ではなかった。
息を吸って吐いてご飯を食べて寝て排泄するだけの人生をよしとする男だった。
 だが、結婚前の和彦は、とても一途で精悍な青年で、私の幸せが自分の幸せだと恥じらうことなく言ってのける男だった。
 こうして脳内にお花畑が広がっていった私は「この人となら幸せになれる」と完全に信じて疑わなかった。
 結局、脳内のお花畑で信じたその男の正体は、人生において何の見通しも将来性もなく、だらしなくて、生きることに関心をもてないだけの男だったのだが。
 それでもいつかは変わってくれると、藁にも縋る思いで結婚生活を続けていたけれど、和彦が変わる気配や私が幸せになれる気配は、一瞬たりとも感じることは出来なかった。
 だから私は、そんな和彦から逃げ出すために1秒でも早く離婚を成立させなければならない。
 この書類を完璧に仕上げて役所に受理してもらわなければーーーーー
 その瞬間、テレビの中でガシャーンと大きい音がして、テレビの中の役者が何人かーーーそして私もーーーひゃあっと声を上げた。
 主人公との結婚を許さない御曹司の父親が激昂してテーブルの上のご馳走をひっくり返したらしい。
 主人公と御曹司に向かって、触ったらねちゃねちゃとしそうな唾を飛ばしながら怒鳴り散らしている。
 私はふいをつかれたとはいえ、こんな安っぽい演出に驚かされたのかと、腹立たしさを感じて、昭和か、と頭の中で悪態をついた。


 「お前を幸せにする」がプロポーズだった昭和頭の和彦と結婚する前に、実は私は宏樹という男とも結婚していた。
 宏樹のプロポーズは、どんな感じだったかと言えば、思い出せない。
 そういえば、宏樹は某有名総合病院の院長の一人息子なので、御曹司と言えばそうだろう。
 宏樹は、周囲の期待を一身に背負って、誰も想像できないような大きな期待とプレッシャーの中で、医師となるべく日々邁進していた、と酔っ払うといつも話していたが、確かに研修医期間を終えるとすぐ、「周囲の期待」に応えるために実家の病院の即戦力として働いていた。
 勿論、同年代の男性と比べて年収は文字通り「桁違い」だった。
 だから、いろんな思惑を抱いて擦り寄る人間は老若男女関係なくひっきりなしで、そんな生活に辟易したおぼっちゃまが、少々貧乏ではあるが「箱入り娘」だった私と出会って恋に落ちてしまった、というのが始まりだった。
 そして、御曹司の宏樹と私の身分違いの大恋愛は、定石通りにいくつかあった障害を乗り越えた末、ついに「結婚」に辿り着くことが出来たのだ。
 ドラマだったら、「この二人は死ぬまでずっと幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし。」だっただろう。
 悲しいけれど、私の現実にはこの続きがあった。
 いつしか御曹司の夫は、少し貧乏で世の中を知らないまま生きてきた妻を、育ちや学歴を理由に蔑み疎んじるようになった。
 そして、どこぞのお嬢様と不倫するまでにそう時間はかからなかった。
 宏樹と結婚した私は、周りの評価ーーー某有名総合病院の御曹司を捕まえたことへの評価ーーーも相まって、お金が沢山あることも一つの幸せだ、なんて思い込もうとしていたこともあったけれど、幸せってそんな簡単なものでもないのだな、と宏樹との結婚でまざまざと思い知らされた。


 そんなことを思い出しながらビールを飲んだら、なんだかやたらと苦いし、ぬるくてまずい。
 吐き出すわけにもいかないので、何とか喉の奥へ押しやる。
 苦しくて少し涙が出てきた。
 涙で滲む目をテレビの方へやると、ドラマもいよいよ佳境に入り、御曹司が「俺は幸せを感じることも出来ない人生なんか必要ない!」とかなんとか家族親族に向かって啖呵を切っていた。
 愚鈍で可愛い主人公も目に涙を浮かべて聞き入っている。
 実際、結婚してからいつまでそんなこと思っていられるのかな。
 そんなことを考えてしまったものだから、卓上鏡に映っている私は物凄く鼻白んだ嫌な奴の典型みたいな顔をしていた。
 よく見たら、テレビの中の親族役たちも同じ顔ような顔をしている。
 慌ててさっきよりぬるくなったビールを飲み干して自分自身を誤魔化してみる。
 いいのよ、ドラマなんだから。


 幸せを感じることが出来ない人生なんて必要ない。
 それはまあ、本当にその通りだと思う。
 私がニ回も結婚をした理由はたった一つ。
  ただ、幸せになりたかったからだ。
 平凡で、どこにでもあって、当たり前のような小さな幸せ。
 それを噛み締めて、大切に抱えて生きるような人生を、私自身がその物語の主人公として生きていきたかっただけだ。
 私の願いはたったそれだけ。
 それだけなのに、何故今まで叶わなかったのだろう。


 ポップなリズムで人を愛することの尊さを歌っているらしいエンディングテーマが流れる頃、私と和彦の離婚届の記入も終わった。
 あとこれを役所に提出すれば、和彦との結婚生活ももう終わりだ。
 この離婚届を提出した瞬間から、私はまた「私の幸せな人生」というドラマの主人公として進んでいくことが出来るのだ。
 希望と期待と安堵で胸がいっぱいになった。
 その前途を祝そうとコップを持ち上げたけれど、コップの中身が空になっていたことをすっかり忘れていた。
 私の手にコップの汗だけがじんわりとまとわりつく。
 すると、横で今まで静かにテレビを見ていた慶太が「終わった?」と覗き込んできた。
「うん、やっとね。」
 手についたコップの汗を、慶太にはわからないようにお尻の下のラグで拭く。
「お疲れさん。」
 慶太は優しく微笑んだ。
「次こそは幸せになりたいので、どうぞよろしくお願いします。」
「大丈夫だよ、俺は。」
 私と慶太は笑い合ってキスをした。
 何度も何度も、年甲斐もなく、恥ずかしげもなく、ハッピーエンドを迎えたドラマの主人公達のようにキスをした。
 今度はきっと大丈夫。
 死が二人を分つまでずっと幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたしって今度こそ終われるはず。
 そうだよね。
 信じて、いい、よ、ね。
 エンドロールが終わると息つく暇なく次回予告に画面が切り変わっていた。
 父親にあんな大見栄を切っていたのに、次回の御曹司はもう主人公に別れを告げている。
 エンドロールが流れてる2分ちょっとの間に何があったんだろう。
 でも、なんかちょっと面白そう。
 来週はちゃんと慶太と一緒に見なくっちゃ。

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