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13 第5章 うねり(1)夏の終演
石崎から話を聞いた後、不可解な由梨の言動に真意を確かめたくなった僕は、堪えきれなくなり、藤島水族館に来ていた。由梨に会おうにも、僕は彼女の連絡先さえ知らなかったからだ。まりかに訊くわけにもいかず、唯一の手掛かりは、彼女が学芸員として働いている藤島水族館だけだった。
藤島水族館は、世界で類を見ない多様な生物の宝庫である相模湾に面し、そこに暮らす生物の展示やショーを展開している。学芸員の多岐に渡る重要な仕事の一つが、解説員としてその魅力をお客様に知っていただくことだと彼女から聞いていた。
チケットを買った時に渡されるリーフレットでタイムスケジュールを確認しながら、随分館内を彷徨ったが、未だに彼女が担当するショーやイベントを見つけられないでいた。
今日、解説があるイベントは、残り1つ。僕は大水槽がある相模湾ゾーンに向かった。
******
複雑な地形が多種多様な海の生態系を作り出している相模湾を再現した大水槽では、雄大に泳ぐ魚たちの生態を観察することができる。既に身動きが取れないほどの大勢のお客たちが集まって、僕もその中にいた。
あれほど、海の外で由梨と会うことを避けていた僕が、今ここでこうしていることが不思議だった。諦め半分でイベントが始まるのを待っていると、そこへハンズフリーマイクを付けた由梨が現れた。
キリリとした表情。僕に見せていた柔らかな表情とは全く違うことに
あの海では、すぐ隣にいた由梨が、なぜだかとても遠い存在に感じた。
イベントの内容は上の空で、彼女に何て声をかければいいのか、そればかりを考えていた。イベントが終わりに近づいた頃、彼女の左手がキラリと光った気がした。よく見ると薬指にリングをしている。<-on the shore->で由梨と一緒にいた青年のことが脳裏に浮かんだ。あの日の夜と同じ、鈍い胸の痛み。僕の中の歪な感情が暴れ出そうとしているのを必死で堪えていた。
約15分間のショーが終わり、お客たちが散り散りに去っていく中、その場に取り残されている僕を由梨が見つけた。驚いた表情で、ゆっくりと僕の方へと歩いて来る。いつもは、真っすぐに僕の目を見る由梨が今日は違った。
「君に訊きたいことがあるんだ。」
伏し目がちに、由梨は小さく頷いた。
由梨に会えたら、あの海で会った時に、水族館での出来事を思い出せなかったこと、家族がいるのを話せずにいたことを真っ先に謝ろうと思っていたはずなのに、由梨の薬指のリングを見た瞬間、その思いは忘れ去っていた。
――訊きたいことが山ほどあった。――
「妻から、君が家に来た日のことを聞いたんだ。その日は、あの海で君と初めて会った日だ。あの日、僕たちが海で出会ったのは偶然じゃなかったの?」
「ごめんなさい。」
「どうして謝るの?」
「ごめんなさい……」
僕の疑問に答えることなく「ごめんなさい」を繰り返す由梨が、僕の不安を大きくしていく。
――お前の気持ちを弄んでいる―― 石崎の言葉を思い出した。
「僕が海に行けなかった日、石崎に会ったらしいね。僕たちは、あの海で会う前、既に藤島水族館で出会っていた話も聞いた。なぜそのことを僕に話してくれなかったの?」
由梨は、意を決したようにぽつりぽつりと話し始めた。
「あの海で藤野さんと再会した時、嬉しかった。だから、藤野さんも私のことを覚えていてくれたらって……でも、藤野さんは、すっかり忘れていて…..いつかお話しようと思いながら会っているうちに、今更まりかちゃんやかおりさんのことを知っているなんて言い出せなくて……そんな時、石崎さんにお会いして、このままじゃいけないって思ったの。私を慕ってくれているまりかちゃん、藤野さんとも気まずくなって会えなくなるのは嫌だった。だから、偶然を装って<-on the shore->で、藤野さんとかおりさんに会えば、これからは家族ぐるみでのお付き合いのような、違った形で繋がれるんじゃないかって……でも、それは……簡単な事じゃなかった……」
「簡単じゃない?どういう意味?」
由梨は何も言えずに黙ったまま俯いている。 その時、誰かが僕たちの方へ駆け寄ってきた。由梨と同じ、水族館のユニフォームを着た女性だ。
「川島さんに何か御用でしょうか?川島さんは、もうすぐ結婚することが決まっているんです。これ以上しつこくされると警備員を呼びますよ。」
―― 結婚 ―― 由梨の左手の薬指にあるリングの意味を知った。
「ち、違うんです。この方は私の知り合いで……」
由梨が慌ててその女性に言った。
「え?そうなの?」
「はい。」
「人違いをしてしまったみたいで……ごめんなさい。」
女性はそう言って僕に謝ると、申し訳なさそうに立ち去った。
「まいったな……。ストーカーか何か、迷惑客とでも思われたみたいだね。今日は、仕事の合間に息抜きのつもりでここへ来て、偶然君を見つけたから話をしようと思ったんだけど、迷惑をかけて悪かったね。それじゃ。」
帰ろうとする僕の腕を由梨が掴んだ。
「待って。明日も海に来るよね?」
「……………。」
僕は、無意識に彼女の手を振りほどいていた。
あんなに必死に探し回っていたのが嘘みたいに、心が由梨を拒絶していた。
「明日は水曜日でしょう?」
由梨が、変わらず明日の水曜日に、あの海に来ようとしていたのが意外だった。
「暑いし、そろそろ海に行くのはやめようと思ってて……」
「……8月4日のことはどうするの?」
「8月4日?」僕はとぼけて言った。精一杯の強がりだった。
「りりちゃんの誕生日のこと、約束した……よね?」
「りりちゃん?……ああ、あの女の子の話?ごめん。あれは、僕の作り話だから。」
「え?」
「ちょっとした悪ふざけだったんだ。じゃ、そろそろ仕事に戻らないと。」
これ以上由梨と話していると、何を口走ってしまうかわからなくて、僕は振り返りもせず、足早に出口に向かって歩き出した。
今度は、由梨は僕を引き留めようとはしなかった。
僕の後悔だらけの夏の記憶を、一緒に楽しい想い出に塗り替えようと言ってくれた彼女に、それは悪ふざけの作り話だと言ったんだ。そんな僕に失望したとしても当然だった。
******
優一が見えなくなってもその場で立ち尽くしている由梨に、先程の女性職員が近寄って来る。離れた場所から見守っていたが、由梨の憔悴しきった表情が心配になったのだろう。
「川島さん、大丈夫?本当にあの人は例のストーカーじゃないの?」
「大丈夫です。本当に知り合いなので……」
「だったらいいんだけど。あの方、お昼過ぎから何度もお見掛けして気になっていたのよね。夏休みだし、お子様連れのご家族や若いカップルが多い中、最近は男性お一人のお客様も珍しくはないけれど、お魚を観賞するでもなく、館内を歩き回っているだけで目立っていたから。そんな時に、川島さんと何だか深刻そうに話しているのが見えて、例のストーカーだと勘違いしちゃったの。ごめんなさいね。」
「いえ、私の方こそご心配をお掛けしてすみません。そのお客様なら最近はお見掛けしなくなりました。変な電話も掛かってこなくなったし、もう大丈夫だと思います。」
「そう?それなら良いんだけど。また何か困ったことがあったら、一人で抱え込まずに、あなたが信頼できる人でいいから相談するようにしてね。」
「はい。ありがとうございます。」
「さぁ、もう少しで閉館の時間よ。もう一仕事頑張りましょう。」
******
由梨は、近く結婚する。左手の薬指のリングが証明していた。なのに、僕と海で会っていた時の彼女はリングなんてしていなかった。なぜ――?
――お前の気持ちを弄んでいる―― 石崎の、あの言葉がまた頭を過った。
由梨に会えたら、真っ先に謝ろうとしていた自分が滑稽で笑えた。
だけど、僕も彼女と同罪のようなものだ。結婚当初、急激に体重が増え、マリッジリングが指を圧迫した為に外してそのままになっていた。結婚していることを話せずにいた僕が由梨を責めるのもおかしな話だ。由梨の言動に対する疑問が全て晴れたわけではなかったけれど、もうどうでもよかった。
帰り道――海風が頬を優しく撫でて行く。
カレンダー上では真夏であるはずのこの日、夏が僕から出て行った。
14 第5章 うねり(2)未来