03 第2章 カツオノエボシ(1)予感
「藤野!珍しいな!」
週明けの月曜日。施工担当との打ち合わせで出社した帰り、1階エレベーターホールで同期入社の石崎達也に呼び止められた。
「今日は外じゃないんだ?ついに営業部もオンライン化を進めているのか?」
「時代の流れだからな……とは言っても、まだまだ対面には敵わないし、できることも限られているよ。それでも、俺たちの業界じゃ無理だと思われていたことが、VRを活用することで、近い未来には革命に近いことが起きそうだけどな……。」
僕は、建築学科の強い大学を出た後、わりと大手のハウスメーカーに就職した。設計部に所属し、これまでずっと内勤だったが、この数年でリモートワーク化が進み、最近では出社するのは月に数回、片手で数えるほどしかない。石崎は営業部のエースで、外に出ていることが多く、社内では顔を合わす機会はめっきり減っていた。
******
石崎との最初の出会いは、新入社員研修だった。最初の印象は、軽口で調子の良さそうな奴に見えていたが、その印象が180度変わるのにそれほど時間は掛からなかった。明るく社交的で、人当たりが良いだけでなく、自然な気遣いもできることから、同期入社の女子ともすぐに打ち解けていた。
今では僕の妻である(旧姓橋本)かおりもその中の一人だった。石崎がいなければ、かおりとの結婚もなかったかもしれない。
両親は工務店を営んでおり、忙しい両親の代わりに8つ上の姉に甘やかされて育ったというのが石崎の口癖だが、そのせいか女性との距離が僕からは考えられないほど近く、いつも女性に囲まれている印象だ。
姉は、実家の工務店を継いでいて結婚はしていないらしく、それを言い訳に石崎も独身を通している。現在、一回り以上年の離れた彼女と半同棲中だ。
何を取っても、全く共通点のない僕と石崎だが、かおりと結婚してからも、子供たちが生まれてからも、入社当時と変わらず、今でも良い関係が続いていた。
「ちょうどいい。昼休憩の時間だ。付き合えよ。」
石崎が、いつもの人懐っこい笑顔で、僕の肩に手を回した。
******
僕たちは、オフィスに近い広場に向かった。
石崎の提案で、女子社員の間で人気になっているというキッチンカーのお弁当をテイクアウトして、広場でランチを取ることにしたのだ。
「今日は、生憎の曇り空だけど、外でのランチもいいもんだなぁ。」
僕はゆっくりと大きく深呼吸をした。石崎には、大きな溜息に聞こえたのかもしれない。
「藤野は、ほぼリモートワークだからなぁ。ストレスになってないといいけど……。」
「そうだなぁ……通勤の煩わしさはないけど、家で仕事をしているとプライベートとの境界線が難しい。以前は、休みの日は一日家でのんびりすることも多かったけど、運動不足解消の為にも、これからは、休みの日にはできるだけ外に出ようと思ってる。先週の水曜は、久しぶりに近くの海に行ってみたんだ。」
「海かぁ。藤野の家からは10分も歩けば海に出られるからな。俺は、海沿いを車で走ることはあっても、わざわざ行くことはなくなったな。まりかちゃんや蓮君が小学生の頃に何度か一緒に行ったけど、あの時が最後だ。」
「そうだったな……石崎も一緒に行ったあの海だ。」
「あそこは人影も疎らで、人目を気にせずのんびりできて最高だったなぁ。今でもそうなのか?」
「今でも変わってない。この前は……」
僕は、なぜかその先を話すのを躊躇った。
「――なんだよ。気になるだろ。」
「うん……この前は、珍しく女の子が独りで来てたなぁ、って……」
「女の子?」
「女の子と言っても、20代半ばくらいかな……。」
「へぇー。何か話したりしたのか?」
「話したっていうか……知らずに毒クラゲを触ろうとしていたらしくて、危ない!って、急に後ろで叫ぶから、心臓が縮むってこういうことを言うんだって思ったよ。濡れた砂の上に思いっきり尻もちをつくし散々だった。」
「クラゲ?クラゲって、夏の終わりの風物詩だと思っていたけど、今の季節にもいるんだな。」
「それも結構危険なクラゲだったみたいでさ。アナフィラキシーショックを起こして死に至ることもあるらしい。」
「おいおい、マジか。クラゲで命を落とすなんて笑えないぞ。」
心配していたのも束の間、石崎がニヤリと笑い、顔を寄せて囁いた。
「ところで、連絡先は聞いてないのか?」
「初対面の相手に連絡先なんて聞くわけないだろ。」
なぜか、僕までが小声になっていた。
「40を過ぎて恋なんてするとたいへんだぞぉ。藤野みたいなタイプは特にな。」
「妻子持ちなのに、今更恋なんてするかよ。」
「ひと夏の恋か――。恋は、始めるよりも終わらせる方が難しい。藤野には荷が重い。やめておけ。」
「おい。人の話を聞いてるか?」
彼女と出会ったのは、短い春が過ぎ、木々の葉が瑞々しく色を増し始めた5月。夏の始まりだった。
04 第2章 カツオノエボシ(2)夏の匂い