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カツオノエボシ~潮騒~ 01 序章 Qualia

カツオノエボシ

カツオノエボシ(鰹の烏帽子、学名:Physalia physalis、英名:Portuguese Man O' War)は、クダクラゲ目カツオノエボシ科 Physaliidae に属する刺胞動物。刺されると強烈に痛むことから、電気クラゲの別名が生まれるほどの猛毒をもつ

https://ja.wikipedia.org/wiki/カツオノエボシ

あらすじ
不器用だが、真っすぐに誠実に生きてきた藤野優一は、妻と二人の子供との穏やかな日々は、これからも続いていくものだと信じていた。そんなある日、ふらりと立ち寄った海で川島由梨と出会う。由梨との時間の中で、無意識に封印していた過去の自分と向き合い、癒されていく優一だったが……
思い描いていた未来が少しずつ形を変えようとしていた。
―― 僕はどうしようもなく臆病だった。家族を、君を、傷つける。それ以上に、自分自身が傷つくことを恐れていたんだ。

01 序章 Qualia(クオリア)

Qualia(クオリア)とは?
何らかの経験・感覚によっておこる、一人一人が感じる言葉にできない独自の質感のことです。日本語では「感覚質」と言われることもあります。つまり、クオリアとは、物事を経験したときに生じる、個人的な意識感覚のことです。重要な点は、クオリアは言語化できない主観的な「独自の感覚」であるということ。

https://zunolife.com/qualia/

「季節はいつが好き?」
君は会う度に訊いていたね。

「桜の花びらが風で舞い、光と影がたゆたう春が好きだ。」
僕が何度同じ答えを繰り返しても、納得がいかないとばかりに
拗ねる君の横顔が好きだった。
 
君と出会ったのは、短い春が過ぎ
木々の葉が瑞々しく色を増し始めた夏の起点。
まだ日差しも柔らかく、海の色は濃い藍色をしていた。


******


この辺りの海は、真夏でもほとんど人影を見ることがない。近くに、美しい白砂の海岸で有名な海水浴場があるだけでなく、波が岸に向かって、垂直に近い角度から入る遠浅の海岸のために、離岸流が起きやすく、遊泳禁止区域に指定されていることも理由なのだろう。

毎日の犬の散歩コースになっている限られた人たちを除けば、時折、きらびやかな都会の遊びに飽きてふらりと訪れた、海に不似合いな格好をしたカップルや、忙しなく過ぎてゆく日常の隙間に、静かな海を楽しんでいる家族連れとすれ違うくらいだ。
 
遠くに、波打ち際をこちらへ向かって歩く男女の人影が見える。
大型犬を連れているようだ。

スリムで無駄のないボディライン、風に揺れる長い被毛を持つその犬と
洒落た風貌の飼い主に、僕は見覚えがあった。


******
 

「こんにちは!この子サルーキですか?」
彼女は大型犬を連れた男女の元へ駆け寄り、弾むような声で訊いた。

「よくご存じね。日本では あまり知られていない犬種なのに。
いつもボルゾイと間違われるのよ。」

仕立ての良い、麻のワンピースに身を包んだ女性が
少し驚いたように微笑んでいる。
 
「子供の頃に住んでいた家の、お隣の方が飼われていたサルーキによく似ていたんです。お散歩の時に一緒に連れて行ってもらったりしたから、懐かしくて……ファルコンという名前で、走るのが大好きな子でした。」

「ファルコン……」女性の肩越しに声がすると、女性は、くるりと男性の方を振り返り、言った。「”あきらめるな――”」
すると、「”幸運が味方してくれるよ。”」と男性が答えた。

「覚えてたんだ……」女性は、嬉しそうに目を細めている。

ぽかんとしている彼女に、女性は言った。
「冒険映画の中に出てくるドラゴンの名前がファルコンていうんだけど、今のは、そのドラゴンの言葉なの。懐かしいわ……」

「――いつ頃の映画でしょうか?」

「随分前の映画よ。忘れもしない1985年。私と彼が中学を卒業してすぐの春に、初めてのデートで観に行った映画なの。あの頃は、夢のある映画が多かったわよね……?」
その問いに答えるように、男性は、照れたような表情で頷いている。

1985年。きっと、彼女は生まれてもいないだろう。
僕には、その映画が何かすぐにわかったが、僕が観たのは映画館ではなく、TVの名作映画劇場だったと思う。

「そう言えば、この子の名前も、映画の主人公の名前から取って”マーヴェリック”っていうのよ。彼は大の映画好きでね……」

「僕たちの話は、そのくらいに……すみませんね、彼女はおしゃべりしだすと止まらなくて……」男性は、やれやれといった風だが、どこか嬉しそうだった。

「ごめんなさい。私ばかりおしゃべりしてしまって……」
「いえ、そんな……。あの、少しだけマーヴェリックに触ってもいいですか?」
「もちろんよ。どうぞ。」

「こんにちは、マーヴェリック。いい子ね。」
彼女は、ファルコンに似た、自分の腰の高さまでもあるその犬の頭を懐かしそうに撫でている。

僕は子供の頃、雨上がりの学校からの帰り道、傘を振り回しながら歩いていて、犬に吠えられ飛びつかれるというトラウマから、犬が大の苦手になってしまい、彼女とマーヴェリックの様子を少し遠くから見ているしかなかった。

そんな、ある夏の日を思い出していた。


******
 

どれくらいの間、彼女の幻を見ていたのだろう。先ほどの男女がすぐ近くまで歩みを進めていた。僕が気づいた後も、女性の方は、微かに笑みを浮かべながら僕から視線を外そうとしない。
あの日のことを覚えているのだろうか――。

二人は軽く会釈をして、僕の横を通り過ぎようとしていた。
その瞬間、僕の目がまばゆい光を捉えた。水平線に接していた太陽が雲間から顔を出し始めたのだ。先ほどまでの冷たいモノクロームの世界が、次第に色鮮やかな世界へと変貌していく。僕が捨てられずにいたつまらないプライドや、小さなこだわりの数々を飲み込んでいくかのように――。

太陽が、ジリジリと静かに、水平線に沈んでゆく。
黄金色に染まった波の上を、ダイヤモンドの粒が滑るようにキラキラと瞬き、少しずつ緩やかに、空にも魔法が掛かりはじめた。

昼と夜が 境界線を越えて交じり合う 君が大好きだった時間。

空と海の色に 風と波の音が溶け合う 奇跡の連続とも言える祝福のQualia。
いるはずのない君の声が、やさしく僕を包んだ――。

『カツオノエボシ~潮騒~』をお読みいただき、ありがとうございます。この作品は、偶然TVのニュースで見た、青く透き通る”カツオノエボシ”という幻想的なモチーフと ある曲の世界観が溶け合って生まれた物語です。この(私の頭の中でだけ上映されている)架空の映画をどうにか形にできないかと、無謀にも小説にしてみました。おこがましいとも思いましたが、数多の方々のお目にとめて頂ければ幸いです。
架空の映画『カツオノエボシ~潮騒~』のキャスティング、エンドロールに流れている曲などを記した、過去のnoteは、こちらです。

02  第1章 夏の気配

03  第2章 カツオノエボシ(1)予感

04  第2章 カツオノエボシ(2)夏の匂い

05  第2章 カツオノエボシ(3)Squall

06 第2章 カツオノエボシ(4)雲の展覧会

07 第3章 たゆたう(1)迷い

08 第3章 たゆたう(2)臆病

09 第3章 たゆたう(3)憂い

10 第4章 on the shore(1)スターマイン

11 第4章 on the shore(2)渇き

12 第4章 on the shore(3)混迷

13 第5章 うねり(1)夏の終演

14 第5章 うねり(2)未来

15 第6章(1)ノスタルジア

16 第6章(2)それぞれの道

17 最終章 潮騒


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