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04 第2章 カツオノエボシ(2)夏の匂い
「危ない!」
その声に驚き、とっさに身構えた僕の腕を誰かが掴み、後ろへと引っ張った。そのはずみで、濡れた砂の上に尻もちをついてしまった。
何が起こったのか、瞬時には理解ができなかった。僕は、波打ち際に見たことのない物体を見つけ、引き寄せられるように手を延ばそうとしていた。
海への近道として使っている細い路地を通り、海にたどり着いた時には、周りに人影などなかったはずだ。
恐る恐る振り返ると、20代半ばくらいの女性が立っていた。
肩より少し長い髪、メイクはほとんどしていないように見える。
「大丈夫ですか?」
彼女は、僕の腕を自分の腕に絡め、持ち上げるようにして立ち上がらせた。
――彼女から ”夏の匂い” がした――
「大丈夫。でも、急に大声で叫ぶから驚いたよ。」
波が運んだ濡れた砂が、ズボンのお尻にべったりと纏わりついている。
僕は、それを払いのけながら大きく溜息をついた。
「ごめんなさい。その子に触ると危険だったから……」
彼女の視線の先にあるのは、僕がさっき興味をそそられ手を延ばそうとしていたものだ。
それは、青く透き通る……
「見た目がとてもきれいでしょう?だから、うっかり触ってしまう人が多くて……」
「触ると、どうなるの?」
「激痛……」
「え?」僕の中で僅かに緊張が走った。
「この子、”カツオノエボシ”という名前の強い毒を持つクラゲなんです……」
彼女は、どこで息継ぎをしているのかと感心するくらい滑らかに、そのクラゲの説明を始めた。
「初夏のこの時期に、初ガツオの到来と同じくらいのタイミングで見られるようになることから”カツオノエボシ”と名づけられました。刺されると雷を受けたような激痛が走り、炎症を起こして患部は腫れあがり、痛みは長時間続くこともあります。症状は様々で、くしゃみ、咳、心拍数の増加、脱力感、呼吸困難、場合によってはアナフィラキシーショックを起こし、死に至ることもあるんです……」
もう死んでいるように見えるのに、それでも危険なのだろうか?
僕の心の声に反応したかのように、彼女の説明は続いた。
「生死に関係なく危険です。刺胞というものがあって、物理的な刺激によって発射するので、死んでいるように見えても刺されることがあります。傷跡が残ることもあるので気を付けないと……。」
僕が呆然と立ち尽くしていると、彼女は慌てるように言った。
「すみません。一方的に話してしまって……」
「いや、大変な思いをせずに済んだよ。ありがとう。」
よく見ると、黒目がちな瞳が印象的なかわいらしい女性だった。
飾り気もなく、メイクもしていないせいか、どこか少女のような愛らしさがあった。
「じゃ、僕は……」
「あの……お時間があれば、もう少しお話しませんか?」
立ち去ろうとする僕を彼女が呼び止めた。
「え?」彼女からの意外な提案に僕が返事に困っていると
「思い立って海に来てみたものの、あまりにも人気がなくて……」
彼女は心細く感じたのだろう。やけに寂しげに見えた。
「少しだけなら……」
応じてしまったのは、きっと……この海の静寂のせい。
******
「ここにはよく来るんですか?」
「家が近いからね。毎週水曜のこの時間には、ここで海を眺めていることが多いかな。」
「水曜?」
「水曜は、仕事が休みなんだ。」
なぜだろう――。小さな嘘が混じっていた。家が近いのも仕事の休みが水曜なのも本当だけれど、この海に来たのは久しぶりだったし、時間も特に決めているわけではなかった。
僕は、社交的なタイプではない。彼女からの提案を受け入れたものの、見知らぬ女性との会話の糸口が見つけられずに、正直、早くこの場から立ち去りたいと思っていた。どうやって彼女との時間を埋めようかと悩み、無難な話題でその場を取り繕おうとしていた。
「先週まで肌寒い日もあったのに、今日は初夏の陽気だね。今年の夏も暑くなるのかなぁ……。」
夕方特有の湿気を含んだ空気が肌にからみついて不快感が増していた。
僕が少しうんざりしたように、彼女には見えたのかもしれない。
「季節はいつが好きですか?」
誰でも一度や二度、こんな会話をしたことがあるだろう。
出会いたての二人にはちょうど良い会話だ。
「……春かな。」よく考えずに返事をした。
「春?……理由はありますか?」
彼女の真剣な眼差しが僕を貫いた。その、彼女の眼差しから逃れるように
僕は、視線を宙に投げた。
「春のやわらかな陽射しの中で、桜の花びらが風で舞い、光と影がたゆたう。そんな穏やかな季節感が好きなのかもしれない。」
「桜がお好きなんですか?」
「桜が好きじゃない人を探す方が難しくない?」
彼女は、その問いには答えなかった。
「私は夏が好きです。夏は、どの季節よりも大切な想い出を残してくれたから」彼女はそう言って、空を見上げた。
彼女につられて僕も空を見上げると、空には、初夏らしい雲がたなびいていた。
季節の想い出たちを語り合っているうちに、僕と彼女の間にあったぎこちなさはすっかり無くなり、太陽は、完全に水平線の中へ隠れてしまっていた。僕が初対面の相手と二人だけで、こんなにも長い時間を過ごせたのは、彼女の持つやわらかな空気感がそうさせたのかもしれない。
05 第2章 カツオノエボシ(3) Squall