12 第4章 on the shore(3)混迷
「ただいまー。遅くなってごめんなさいね。石崎君、たいへんじゃなかった?」
「二人ともいい子だったよ。もっとゆっくりしてくれて良かったのに。」
「十分、楽しんできたわ。ねぇ?」
「うん。」
「楽しかったわりには、二人とも疲れた顔をしてるな。」
「そう?お料理もおいしかったし、雰囲気も最高。テラスの特等席で花火も観れたのよ。」
「あ、そうだ。まりか……<-on the shore->で、ある人に会ったの。誰だと思う?」
かおりは、いつものようにダイニングでパソコンに向かっているまりかに訊ねた。
「――由梨さん?」
「えー?どうしてわかったの?つまらない……」
「だって、由梨さんが家に来た時に<-on the shore->の話になったでしょ?ママが行ってみたいって言ったら、由梨さんが、夜の方が雰囲気があって素敵だって言ってたから、よく行くのかなって……。それに、ママの誕生日にパパと二人で行って来たらって、3人で話したの覚えてない?」
「そうだったわね……でも、変なの。私が由梨さんに声をかけたら慌てて帰っちゃったのよ。デートみたいだったから気まずかったのかしら。」
「ふーん。今日がママの誕生日なのを忘れてたのかな。」
「そうかもね。余程大切な人でもない限り、一度聞いたくらいじゃ、誰かの誕生日なんて覚えてないわよ。」
「それにしても、由梨さんにデートする相手がいるなんて知らなかった。今度会ったら訊いてみよう。」
二人が話で盛り上がっている傍で、石崎が何かに反応して僕を見た。
たぶん、“由梨”という名前に聞き覚えがあったからだろう。
「じゃ、そろそろ俺は帰るよ。藤野も、明日の定例会議は出社するよな?」
「そのつもりだけど。」
「じゃあ、その後予定がないなら、少しつきあってくれるか?」
「いいけど。」
石崎が何を目的にしているかは、いくら鈍感な僕にもわかった。
「石崎君、今日は本当にありがとう。気を付けて帰ってね。」
「またいつでも言ってよ。留守番くらい、いつだってできるから。蓮君とのゲームのリベンジもしないとな。」
圧倒的な大差で勝利者になっていた蓮の表情が得意げに見えた。
優一が玄関先で石崎を見送る。
「今日は、本当に助かった。ありがとう。」
「じゃ、明日。」
「さて、現実に戻りますか。あなたたち、先にお風呂に入っちゃって。」
かおりのその言葉をきっかけに、まりかと蓮が風呂の順番でもめ始めた。
いつもと変わらない光景だ。
<-on the shore->での出来事が、まるで夢でも見ていたかのように、いつもの日常が始まっていた。
******
風呂から出た後、僕は、<-on the shore->での出来事と真正面から向き合おうとしていた。
かおりとまりかは、いつどこで由梨と知り合ったのだろう。彼女は、僕に家族がいると知って、どう思ったのだろう。今まで人の心と向き合うことを避けていた僕が、由梨に対してだけは違っていた。
「あなたたち、あまり遅くならないうちに寝るのよ。」
かおりが風呂から出たらしい。廊下の壁越しに子供たちに声をかけた後、寝室に入って来た。
「やっぱり少し疲れたわね。楽しかったけど、慣れない所に行ったから緊張しちゃったのね。」
「そうかもしれないな。ところで、さっき、<-on the shore->で会った女性が家に来たことがあるような話をしていたけど、いつ頃のこと?家には、石崎以外お客さんが来ることは滅多にないから、聞いていたら覚えてると思うんだけど……」
「由梨さんが家に来た時のことなら話したと思うわよ。確か、あの日は、神奈川県の沿岸部で毒クラゲが大量に打ち上げられてるって、テレビのニュースでやってた日よ。何て名前だったかしら……」
「毒クラゲ!?」
「ぁ……あの日は、あなたお散歩に出ててニュースの時間にはまだ帰宅してなかったわね。まりかが駅で偶然会ったからって、急にお連れするものだから、慌てたって話したと思うけど、覚えてない?」
「――!?まりかが進路の相談をしている人を連れて来たって言ってたあの日?相談相手って、男じゃなかったのか?」
「相談相手は、今日会った由梨さんよ。男の人だと思ってたの?」
あの日は、あの海で初めて彼女と出会った日だ。僕と会う、その直前まで彼女が家に居たなんて……
******
「ただいまー」
「おかえりなさい。あら、お友達?」
「前に話したことがあるでしょ。進路のことで相談してる人がいるって。駅で偶然会って、無理やり連れてきちゃった。」
「はじめまして。川島由梨です。」
「いつもまりかがお世話になっております。どうぞ、お上がりください。」
「いえ、今日はここで。ご挨拶だけのつもりでしたから……」
「暑い中、家まで来ていただいて、それじゃ申し訳ないわ。さっき、おもしろいハーブティーが届いたんです。よかったら、ご一緒にいかがですか?」
「最近、ママはハーブティーにはまってるの。由梨さん、嫌じゃなかったら付き合ってあげて。」
「じゃあ、少しだけ。」
「夏に涼し気なブルーですね。」
「”マロウブルー”は、日本名”ウスベニアオイ”といって、初夏から夏にかけて赤紫色の花を咲かせるアオイ科の植物で、様々な美容健康効果が期待されているんですって。レモンをプラスするとブルーから紫、ピンクに変わっていくらしいの。」
まりかがスライスしたレモンを1片、そっと入れた。
「ほんとだぁ。紫に変わっていく…….」
「ごめんなさいね、私の趣味にまでお付き合いさせてしまって。」
「いえ、とんでもないです。」
「ところで……由梨さんは、理系のお仕事をされているんですよね?」
「はい。藤島水族館で学芸員として働いています。」
「藤島水族館!?まりかが中学生の頃までは、よく家族で行ったんですよ。学芸員って、どんなことをされるんですか?」
「飼育管理や研究、展示している生き物の解説が主ですね。他にも、餌やりや水槽のお掃除みたいな細かい仕事もたくさんあります。まだ、駆け出しなので日々勉強です。」
「生き物相手だと、いろいろ大変でしょうね。まりかは、海の生き物が好きで、小さい頃は水族館で働きたいなんて言ってたこともあるけど、好きなだけじゃ務まらないお仕事よね。」かおりは、そう言ってまりかを見た。
「それは……。ねぇ、由梨さん。最近、藤島水族館の近くに新しいお店ができたでしょ?」まりかは話の流れを意図的に変えた。
「<-on the shore->のこと?」
「そう。外から見ただけなんだけど、いい感じのお店だね。」
「そうね。水族館の行き帰りに利用されるお客様も多いみたい。」
「ああ、あの新しくできたお店?<-on the shore->っていうの?車で前を通るたびに、行きたいなぁ、って思ってたのよね。」
「昼間は、若いカップルや小さな子供を連れたご家族も多くてカジュアルな感じですけど、夜はもっと雰囲気があって素敵なんですよ。」
「だったら、夜にパパと二人で行って来たら?ママの誕生日なんてどう?今年は何の予定も立ててないし。」
「夜に、まりかや蓮を置いて行くのは気が引けるわ。それに塾の送り迎えもあるし。」
「7月31日は塾はないよ。前日まで塾の合宿で、その日はお休み。たまには、二人で食事くらい行っておいでよ。ねぇ、由梨さん。」
「是非……」
「あ!」かおりが目を見開くようにして言った。
「びっくりしたぁ、急にどうしたの、ママ。」
「お会いした時からどこかでお見掛けした方のような気がして、ずっと気になっていたの。3年前だったかしら……夏休みに家族で藤島水族館に行った時に、夫とはぐれちゃって……由梨さん、その時に夫を連れて来てくださった方じゃないかしら。」
「えぇ?そんなことあった?じゃあ、職業説明会の時には、既に由梨さんと知り合ってたってこと?全然覚えてない。」
「まりかは写真を撮るのに夢中だったもの。でも、ご縁があったのね。今日、夫が居たら良かったのに。普段は在宅で仕事をしてるんだけど、今日はお休みで出かけているんです。残念だわ。」
かおりは、リビングボードの上に飾っていた家族写真を手に取った。
「左端に写っているのが夫よ。見覚えないかしら?」
「…………。」
困った様子の由梨を見てまりかが言った。
「3年も前の話でしょ。由梨さんは毎日いろんなお客さんと接しているんだもの。パパのことなんて覚えてないわよ。余程、好みの男性ならともかく。」
「それもそうね。あと……この右端がまりかの弟で蓮。うちは4人家族なの。由梨さんのご家族は?」
「両親は金沢にいます。父は金箔職人で母は工房でその手伝いを……」
「伝統的なお仕事をされているんですね。」
「お写真、もっとよく見せて頂いてもいいですか?」
「どうぞ。」
「素敵な家族写真ですね。この近くの海ですか?」
そこには、家族4人が海をバックにはしゃいでいる様子が映し出されていた。
「ええ。藤島水族館に行った帰りに、その日は歩いて帰ろうってことになって……そこは、この辺りの海にしては珍しく静かで、のんびりするには絶好の穴場なんですよ。さっき、夫が散歩に出る前に、今日は海の方へ行くようなことを言ってたから、今頃いるかもしれません。」
「家から10分も歩けば行けるよ。来る時に青い三角屋根のお家があって、かわいいねって話してたでしょう?そのお家のすぐ横の路地をまっすぐ下って行くとすぐだから、今から行ってみる?」
「まりかちゃん、ありがとう。今日は時間がないから、今度連れて行ってもらおうかな。」
――ガチャッ……バタン。ドドドドドド――
誰かが2階のリビングに続く階段を駆け上がってくる足音がした。
「今日は部活が休みになったから、これから友達と遊びに行ってくる!」
蓮だった。言い終わるのと同時に、見知らぬ人を見つけて、マズいといった表情だ。
「まずは、ただいま、でしょ?」
「ただいま。」
「まりかのお客様よ。ご挨拶してね。」
「蓮です。こんにちは。」
「こんにちは。川島由梨です。」
「夕食の時間までには帰ってきてね。」
「わかった。じゃ、行ってきま―す。」
蓮は、普段は隠れている人見知りが発動しているようだった。由梨に対し、ぎこちなく会釈をすると、階段を駆け下りて行った。
「私もそろそろ……。今日は、急にお邪魔してすみませんでした。」
「こちらこそ、無理にお引止めしてしまったみたいでごめんなさい。
またお時間がある時に遊びにいらしてくださいね。まりか、駅までお送りしたら?」
「あ、大丈夫です。道もわかりますし、ここで失礼します。まりかちゃん、またね。」
「うん。またねー。」
******
かおりから、由梨が家に来た時の様子を聞いたが、聞けば聞くほど、僕の頭の中は混乱するばかりだった。
由梨は、あの海で出会った時から、僕に家族がいること、あの日、僕があの海にいるかもしれないことを知っていたのだ。
まりかの誘いを断ったのに、ひとりで海に来たことも、<-on the shore->での態度も、何から何までわからないことばかりだった。
僕の不安は頂点に達し、眠ることができずに、そのまま翌日を迎えた。
******
月初めにある定例会議の日。僕は、所属している設計部の会議を終え、営業部が使っている会議室を覗くと、石崎が一人で待っていた。
「悪い。遅くなった。」
「いや、ウチもさっき終わったばかりだ。みんな外に出たみたいだから、ここへは誰も来ない。ちょっと話せるか?」
僕は無言で頷いた。
「まさかとは思うが、昨日かおりとまりかちゃんが話してた人って……」
「そのまさかだ。」
「そうか、まいったな……」
石崎は、肩を落とし、深いため息をついた。
「藤野に話しておきたいことがあるんだ。」
「なんだ?改まって。」
「このことは、話すつもりはなかったんだけど……実は、蓮君が怪我をして藤野が病院に連れて行った日、あの海に行って由梨さんに会った。最近の藤野の様子が気になって、これ以上深入りする前に、どんな相手なのか確かめておきたかったんだ。」
「……!?」
「世間話をするだけのつもりが、話しているうちに、彼女が自分のプライドのためにお前の気持ちを弄んでいるように思えて、つい、かおりの誕生日にお前たち夫婦が二人きりで祝う予定があることを話した。お前たち夫婦がどれだけうまくいっているかを知れば、彼女はもう、あの海には現れないと思ったんだ。」
「そんなことが……」
「でも、かおりの誕生日がいつかや店の名前までは話してない。かおりとまりかちゃんの話から、由梨さんは知っていたような口ぶりだったけど、一応話しておいた方がいいと思ったんだ。」
「その話なら、昨夜かおりから聞いた。石崎のせいじゃない。」
「由梨さんは、お前と会ったのはあの海が初めてじゃないと言っていた。
以前、藤島水族館でお前たち家族と会ったことがあるらしい。お客さんともめていた時に、迷子がいるふりをしたお前に助けられそうだ。」
石崎に言われたことで、かおりの話が補完され、微かに記憶が蘇ってきた。あの時の女性は由梨だったのか……。かおりの話では、由梨は水族館での出来事を覚えていない様子だったのに――僕には、彼女が何を考えているかわからなくなっていた。いや、最初から何もわかっていなかったのかもしれない。
「海で会った時、その事を藤野が全く覚えていなくて酷く傷ついたみたいだ。藤野に家庭があるのを知りながら会い続けていたのも、自分は覚えていたのに、全く思い出しもしない藤野の気を引きたくなったんだろう。更に、俺がよけいなことを言って、彼女のプライドを傷つけたせいで、当てつけに<-on the shore->に行ったのかもしれない。」
「いや、それはない。彼女は、僕と初対面のふりをしたし、かなり動揺しているようにも見えた。それに……」
――僕が知っている彼女はそんな人間じゃない。――
そう続けようとしたが、憐れみを帯びた石崎の視線に抗うほどの意思の強さは僕には残っていなかった。
もちろん、石崎は、そんなつもりはなかったのだろうけど
僕はひどく傷ついていた。
「出過ぎた真似をして本当にすまなかった。でも、かおりが傷つくのを見るのは嫌なんだ。由梨さんも初対面のふりをしてくれたのなら、これで終わりにしていいんじゃないか?」
石崎が、彼女と何をどこまで話したのかはわからないが、8月4日の約束までは知らないようだった。石崎が言う通り、このまま終わらせるのが一番いいのかもしれない。明確に約束をしたわけではないし、<-on the shore->での様子から、彼女は、明日の水曜は海に来ないかもしれない。僕もどうすればいいのかわからないでいた。ただ、僕の何かが彼女を深く傷つけてしまったのだとしたら、謝りたい。それだけだった。
13 第5章 うねり(1)夏の終演