06 第2章 カツオノエボシ(4)雲の展覧会
週に一度、川島由梨と海で会うようになってから、もうすぐ2か月が経とうとしていた。初めは、あれだけ海に行くことを躊躇っていた僕が、今では彼女との時間を待ち望んでいる。
それは予測不可能だった未来が、今では日常に変わりつつあったからだろう。だからこそ、このままではいけないという思いも同時に生まれていた。
これからも僕は、この海で由梨と会い続けるのだろうか。
夏が終わっても?それは何を意味しているのか。
何度自分に問いかけてみても、もどかしさだけが波音にかき消されていった。
相変わらず、由梨は会う度に「季節はいつが好き?」と訊く。
それに僕が「何度訊かれても答えは同じ。」と答えるのが、この静かな海での僕たちのルーティンになっていた。
いつもと違ったのは、珍しくかわいらしいゲストがいたことだ。
遠く、飛行機雲が空を切り裂いていくのが見える。
それを、小学校高学年くらいの少年と幼い少女が見上げていた。
この日、由梨は初めて僕にプライベートな質問をした。
「兄弟はいる?」
「いるよ。半分血の繋がった弟と妹が。」
特に隠す必要もなかったのでそう答えた。
「半分?」
「僕の両親は、僕が小学校に入る直前に離婚して、今の母は義理の母親。
弟と妹は、父とその義理の母との間に生まれたから。年も離れているし、兄弟って感じでもないけど……」
この話をすると、いつも相手は気まずそうにするけど、今時、親が離婚している家庭なんてごまんとあるし、家族の在り方もそれぞれだから僕は気にしていない。彼女も特に気にしていないように見えた。だから、あの話をしてみようと思ったのかもしれない。
「ただ……」
「ただ?」
「つまらない話だけど……笑わないって約束してくれたら話すよ。」
なんだか僕は、秘密を打ち明ける前の子供みたいな気持ちだった。
「絶対笑わない。つまらなくてもいいから話して。」
彼女までが、秘密を共有する子供みたいな目をしていた。
「僕が小学生の頃、よく遊んでいた友達の一人が、いつも幼い妹を遊びに連れて来ていたんだ。その子が友達を「おにいちゃん」と呼んでいる声の響きがとてもかわいくてね。幼いながらも兄に対する絶対的な信頼を感じて
当時、まだ父子家庭で兄弟がいなかった僕は「兄」という称号に憧れたんだ。その後、さっき話した義理の弟妹が生まれたけど、父が僕を名前で呼んでいたから、義理の母も弟妹も僕を「優一君」と名前で呼んでいた。気づいたら、なぜか僕から見た弟が、みんなから「お兄ちゃん」と呼ばれる存在になっていたんだ。せっかく弟と妹ができたというのに、僕は「兄」という称号を貰い損なったっていう話。」
由梨は約束通り、最後まで笑わずに聞いてくれた。
普通なら、知り合ったばかりの男から、突然、実は妹が欲しかった。なんて告白されたら、ドン引きされるのが落ちだろう。
そう思うと、急に居た堪れなくなり、他愛もない話にすり替えたつもりだった。
「そろそろ梅雨が空けそうだね。早く、雲一つない快晴の空が見たいなぁ。」
「確かに快晴の空は気持ち良いけど、私は雲がある方が空に表情が生まれて好き。ほら、あの雲なんて、翼を広げた天使の羽根みたいな形に見えない?あっちには羊の群れ……」
雲を何かに例えて空を眺めている由梨が、僕をある少女と過ごした夏へと押し戻していた――
******
「――話聞いてた?藤野さんって、時々そんな風に心がどこかに飛んで行ってしまうよね。」
「ごめん。遠い昔、今の君みたいに雲を何かに例えている女の子がいたな……って。」
「――その話、聞きたい。」
「僕が無責任な約束をしたことで、その子を傷つけてしまったんだ。あまり良い想い出じゃないから誰にも話したことがない。」
「私も、誰にも話さないから聞かせて。」
由梨は、内緒話をする時みたいに、僕のすぐ隣に座った。
「実は……さっきの話には続きがあるんだ。」
想い出は、意図せずとも自分に都合よく、美しく塗り替えられていくものだと言うけど、その夏だけが何の装飾もされずに、僕の中で置き去りにされていた。ソーダ水の瓶の中に、閉じ込められたままのビー玉みたいに――
******
――何から話そうか……
思い出す度に、胸にちくりと針を刺されたような痛みが走る。それが嫌で
忘れようとしていた。それでも、記憶の中に残る少女との日々は、無色透明な思いと愛しさに包まれていた時間だったように思う――
*
「入社したばかりの頃、僕には、本宮さんという上司がいたんだ。年は10才以上も違ったけど、何でも相談できる兄のような存在だった。僕が独り暮らしで、朝食を抜いたり外食ばかりで偏ったものばかり食べているというのを知って、乱れた食生活では栄養不足になると、家に呼んでは奥さんの手料理を食べさせてくれたりした。本宮さんには娘さんがいたんだけど、一人っ子だったせいか人見知りで、初めのうちは、僕を見ると自分の部屋に閉じこもってばかりいた。それでも、1か月もすると少しずつ顔を見せてくれるようになって……」
――そんなある日のこと――
「いつも甘えてしまってすみません。」
「いえいえ、いつも通り家庭料理しかないけど、遠慮なく召し上がってくださいね。」
「今日は、うちのちびが藤野君にちゃんと挨拶をしたいだって。少しだけ相手をしてやってよ。」
本宮さんが言う、幼い女の子のちゃんとした挨拶というのがどんなものか、想像できずにいると、「あの子、藤野さんが遊びに来るとわかった2、3日前からずっと鏡の前で、映画の中のプリンセスに習って、挨拶の仕方を練習していたんですよ。」と、本宮さんの奥さんが言った。
2階から、女の子が階段を下りてくるのが見えた。
頭の上には小さなティアラ。淡いブルーのドレスにサッシュまでつけている本格的な装いだ。彼女が一番好きな【シンデレラ】の衣装らしい。
「こっちにおいで。」
階段下まで来て躊躇っている女の子に本宮さんが手招きした。
「どうしたの?今日はお兄ちゃんにちゃんとご挨拶するって、あんなに頑張って練習していたのに。」本宮さんの奥さんが即すと、女の子は意を決したように僕の前まで来ると、スカートの両端をつまんで左右に広げ、ちょこんとお辞儀をして見せた。
「ご……よう……。」
恥ずかしくて口籠ってしまったのか、女の子の声は小さすぎて聞き取れなかったけれど、たぶん「ごきげんよう。」と言ってくれたのだろう。
女の子が心を開いてくれたようで嬉しくて、僕も「ごきげんよう。」と笑顔で返した。
本宮さんは、娘を愛おしそうに見ている。
「王子様へのご挨拶らしい。最初は藤野君にする。と言って、まだ僕にはしてくれないんだよ。」本宮さんがそう言うと、恥ずかしくなったのか、女の子は2階へ駆け上がって行った。
******
「そんなことがあって――それからは、本宮さんの家に遊びに行くと、女の子は僕を「おにいちゃん」と呼んで、慕ってくれるようになった。僕が欲しかった「兄」という称号は、思いがけず本宮さんの家族によって与えれたんだ。
お洋服も靴も、ママが選んでくれるピンクよりも、本当はブルーが好きだってこと、ママの手作りのクッキーよりも市販のチョコレートの方が好きだってことも、”ママが知ると悲しむから秘密だよ” って、教えてくれた。
それだけ女の子は僕を信頼してくれていたし、僕も女の子を妹のように大切に思うようになっていた。なのに、あの日が女の子に会える最後の日になるなんて僕は思いもしなかった。」
******
コバルトブルーの空に真っ白な入道雲。
その日は、青と白のコントラストがいつも以上に際立っていた。
「お天気になって良かったわね。」
本宮さんの奥さんが手作りのお弁当を広げながら言った。
おにぎり、たこのウインナー、卵焼き。手がこみ過ぎていない普通のお弁当が遠慮のない家族のような関係みたいで嬉しかった。
「ごちそうさまです。外で食べるお弁当は格別ですね。」
お腹も満たし、僕は何年かぶりに来た海で、夏らしい夏を楽しんでいた。
「おにいちゃん、見て見てー。あれがクジラで……こっちがイルカの親子。」女の子が小さな手で雲を指差し楽しそうに教えてくれた。
――当時の(大人になっていた)僕は、小さな女の子におにいちゃんと呼ばれるのは気恥ずかしい思いもあったけど、女の子と過ごしている時間だけが、僕の中で迷子になっていた子供の頃の自分自身を取り戻せる時間だった――
「あっちはね……えっと……シュークリーム!」
「本当だ。まるで雲の展覧会だね。」
「てんらんかい?」
「雲が形を変えて作り出したものを、僕たちに並べて見せてくれているんだよ。じゃ……あれは何に見える?」
僕は、なんの形も成していない巨大な塊状の雲を指差した。女の子が何て答えるのか、いたずら心だった。
「……雲の王様!だって、一番大きいもん!」
僕のいたずら心など意に介さず、女の子は素直な気持ちでそう思ったんだろう。
「雲の王様かぁ。あの雲は、雲の中で一番偉いんだね。」
僕と女の子は、次々に形を変えて流れて行く雲を夢中になって追いかけた。
僕が歩く歩幅に合わせて、女の子は必死に、僕の足跡の上に自分の足跡を重ねて歩いた。
砂の上に、一人分の足跡だけを残して――
「そろそろ帰ろうか。風が冷たくなってきた。」本宮さんが言った。
本宮さんの奥さんは、本宮さんが運転する車の助手席に、僕と女の子は、後部座席に座った。
本宮さんの家に着いて、女の子にまたね。と僕が手を振ると、落ち着きのない様子で「来週誕生日なの。また一緒に海に行きたい。」と女の子は言った。
「そのお話はしちゃダメって言ったでしょう。その日、お兄ちゃんはお仕事があるの。」本宮さんの奥さんが慌てている。
「その日はパパがお休みするから、パパとママの3人で海に行こう。」
「おにいちゃんも一緒がいい。また雲の展覧会を探すの。」
思いが止められなくなったのか、本宮さんの声にも耳をかさなくなっていた。
「わがままばかり言うと、もうお兄ちゃんは遊びに来なくなっちゃうかもよ。」本宮さんの奥さんが女の子にやさしく注意する。
「ダメなの?」目に涙をいっぱい浮かべている。
海にいる間、幼いなりに我慢して黙っていたのだと思うと、いじらしくなってしまった。
「大丈夫です。休みなら取れると思うので……」
女の子は飛び上がるようにして喜んで、バイバイと手を振りながら家に入っていった。
良い恰好をしようと思ったわけじゃない。僕に「兄」という称号をプレゼン
トしてくれた女の子の気持ちに応えたかったからだ。
本宮さんも奥さんも無理しなくていいと言ってくれたけど、縋るような目で僕を見る女の子をそのままにして帰る気持ちにはなれなかった。
******
――そして、女の子の誕生日当日。
その日に限って、僕が補佐として担当していたクライアントさんの都合で大幅な設計変更があり、工事に間に合わせるために急遽出勤することになった。午前中だけの予定で、終わり次第、駆け付けるつもりでいたのに――
その日はトラブル続きで、仕事を片付けて、本宮さんの家に到着したのは夜の8時を過ぎていた。僕の上司である本宮さんも対応に追われてまだ帰ることができず、奥さんと女の子だけの寂しい誕生日になっていたと推測できた。
「お約束が守れずに本当にすみませんでした。」
「いいのよ。お仕事だったんですから気にしないでください。あの子、海ではしゃぎすぎて疲れたのか、もう眠ってしまってるの。ごめんなさいね。」
奥で小さな影が動くのが見えた。本宮さんの奥さんは僕に気づかってそう言ってくれたけど、女の子は、約束を破った僕に会いたくなかったのだろう。僕は、女の子の誕生日プレゼントに用意していた本物の貝殻で縁取られたフォトフレームを預けて帰るしかなかった。
******
――あの日の記憶は、鳴り止まぬ潮騒となって、今でも僕の中で生き続けている。
本当は、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
由梨に話したことで、長年の胸の仕えが取れた気がした。
でも、彼女はその話をそこで終わらせなかった。
「それから?」
「それからって?」
「その後どうなったの?」
由梨は、全部話したつもりになっていた僕に話の続きを求めた。
僕は、人の負の感情に向き合うのが昔から苦手だった。
女の子の沈んだ顔を見るのが怖くて、そのまま足が遠のいてしまっていた。
******
「その後、本宮さんが会社を辞め、独立して設計事務所を立ち上げたり、僕も責任ある仕事を一人で任されるようになって忙しくしてたりで、そのまま疎遠になってしまったんだ。それから3年程経ったある日、突然本宮さんの奥さんから連絡をもらって、本宮さんが亡くなったと知った。膵臓がんだった。仕事が軌道に乗ったばかりで忙しく、自分の体にまで意識がまわらなかったらしい。お葬式に行った時、奥さんは気丈に対応されていたけど、小学生になっていた女の子は奥さんにしがみついて泣きじゃくっているばかりで、見ているのも辛く話しかけることができなかった。あんなに僕のからだを気づかってくれていた本宮さんの死は僕も受け入れるのに時間が掛かって、落ち着いてからご自宅へ伺おうと思っていた矢先、本宮さんの奥さんが娘さんを連れてご実家へ戻られたと人伝てに聞いた。それっきり...…
僕は、堰を切ったように話した。
ずっと黙って頷いているだけだった由梨が口を開いた。
「女の子の名前は覚えてる?」
名前?……20年も前の事で、すぐには思い出せずにいた。
「”りり”……確か ”りり” だった……。」
僕が自信が無さそうに見えたのか、由梨は訝し気な目で僕を見ている。
「大丈夫。一緒に海に行った時、『今、ひらがなを書く練習をしているの。』って、砂の上に ”もとみやりり” と何度も書いていたことを思い出したんだ。」
「そう……りりちゃん……かわいい名前。そう言えば、高校の時のクラスメートに、りりちゃんて子いたなぁ。頭が良くてかわいくて、いつでもみんなの関心を集めてた。」
そう言って、由梨は、漢字で ”莉々” と砂の上に書いて見せた。
「でも、苗字は本宮じゃなかったよ。”斎藤莉々” ――。ねぇ、いいこと考えた!藤野さんと私でりりちゃんのお誕生日のお祝いをしない?藤野さんがりりちゃんとの想い出をそんな風につらく感じているなんて、りりちゃんが知ったら悲しむと思う。二人でその続きをしてハッピーエンディングに変えよう。想い出を塗り替えるの――。あ……でも、名前を思い出す時でさえ怪しかったから、誕生日なんて覚えてない?」
「いや、誕生日は8月4日だ。僕の誕生日が4月8日で、鏡文字というわけじゃないけど、記憶にはっきり残ってる。」
「8月4日?もうすぐじゃない。」
由梨は、バッグからスマホを取り出してカレンダーを確認している。
そして、スマホから目を離し僕の顔を覗き込んだ。
とっさに僕は、彼女の視線から目を逸らした。
このままだと、連絡先の交換をする流れになってしまいそうだったからだ。
彼女はそれには気づかないふりで、スマホをカバンの中に直した。
「水曜じゃなかった……ダメ?」
「休みならなんとかなると思う。」
ぽんぽんと彼女の頭を軽く二度叩いた。
彼女は不思議そうに僕を見ていた。
「あ、ごめん……つい。」
――なんだか、君が小さな女の子に見えたから――
由梨は何事もなかったように、もう一度バッグからスマホを取り出した。
「何処か、おいしいスイーツのお店でケーキを食べるのはどう?」
検索画面に「スイーツ カフェ 誕生日」と打つと、湘南エリアの海カフェを紹介するページが表示された。
「この近くのカフェも載ってるよ。」僕の顔にスマホ画面を近づける。
僕は混乱した。由梨と、この海以外で会うことなど僕の頭の中にはなかったからだ。毎週のようにここに来て、彼女と会っていることに、家族への罪悪感がなかったわけではない。彼女と会うのは、この海にいる間だけ。
それが僕の中で作った唯一のルール、由梨との境界線だった。
「8月4日、たぶん大丈夫だと思うけど、何をするかはまた考えよう。」
僕はついさっきしたばかりの約束に、曖昧さを残した。
僕は弱かった。家族への罪悪感、彼女への責任、すべて背負う勇気がなかった。由梨の気持ちを確かめたわけではないけれど、今なら誰も傷つかずに終わらせられると思っていた。
海からの帰り道、僕は、8月4日を彼女と会う最後の日にしようと決めた。
夏が連れてきたイレギュラーな出会いは、夏の頂点と共に終わりに近づいていた。
07 第3章 たゆたう(1)迷い