08 第3章 たゆたう(2)臆病
翌週の水曜日。石崎は昼過ぎから藤野家を訪れていた。
「珍しいわね。石崎君が休日に2週続けて家に来るなんて。」
「先週は藤野に会えなかったからさ。それに、今日は夜からこの近くで彼女と会う約束をしてるんだ。」
「そうなの?じゃ、待ち合わせの時間までゆっくりしていって。」
「そうさせてもらうよ。」石崎はチラリと僕を見た。
いつもなら1、2時間で帰るのに、今日はこのまま居座るつもりらしい。
彼女との約束を口実に、今日、僕が海に行く前に釘を刺しに来たのだろう。
石崎のこともあったが、刻一刻と気が重くなっていく――。
理由は、来週に迫っている、由梨と過ごす最後の日になるであろう8月4日のことだ。由梨は、あの海を出ようと言った。彼女にとっては深い意味はないのかもしれない。でも、僕にとってそれは、由梨との境界線を越えることだ。代替案も思いつかず、今日この時間になってもノープランのまま頭を悩ませていた。
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「今日は2人とも何だか変よ。喧嘩でもしたの?」
いつもなら3人揃うと話が尽きないのに、今日に限って会話が続かない。
よそよそしい僕と石崎の態度を不思議に思ったのか、かおりが言った。
「いつも通りだけど……あっ、そうだ。藤野とも話してたんだけど、
もうすぐかおりの誕生日だろ?何も予定がないなら2人で食事にでも行ってこいよ。」話を逸らすように、石崎が言った。
「そうね……まりかもそんなこと言ってたけど……」
「だったら、決まりだな。」石崎は、僕たち夫婦よりも意欲的に見えた。
僕と川島由梨とのことを心配しているのだろう。
「それなら行きたいお店があるの。<-on the shore->っていうダイニングカフェなんだけど……知ってる?」
「最近、国道沿いにできた店だろ?車で前をたまに通るけど流行ってるみたいだな。」
「そうなの。評判も良いみたい。夜はシックで大人の雰囲気になるらしいんだけど、昼間はカジュアルで家族連れも多いんですって。昼間なら、まりかや蓮も一緒に行けるし……」
「夜が良いよ。」遮るように石崎が言った。
「でも、夜にまりかや蓮を置いては行けないし……」
「まりかちゃんと蓮君のことなら俺が見てるから。折角のかおりの誕生日なんだし、たまにはドレスアップしてさ。なぁ?」石崎が僕に同意を求めた。
「ああ、そうだな。」僕は素直にそう言った。
由梨のことで、後ろめたさから言ったわけではない。ずっと僕たち家族を支えてくれているかおりへの感謝の気持ちからだった。
「じゃあ、まりかと蓮のことは石崎君にお願いしようかな。ドレスアップして夜にお出かけするなんて、独身時代を思い出すわ……。」かおりは嬉しそうに目を輝かせている。
その後、僕たちは、それぞれの独身時代の話で盛り上がった。
僕と石崎との間にあったわだかまりのようなものも、いつのまにか消えていた。
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夕方。いつもの水曜なら海に出かけて行く時間になった。
石崎がいることで、家を出るきっかけがつかめないでいると、家の電話が鳴った。
「はい。藤野です。」かおりが電話に出る。
「……いつも蓮がお世話になっております。え?……お世話をおかけしました。すぐに迎えに参ります。…………はい、失礼致します。」
「蓮がどうかしたのか?」
「部活のサッカーで足を怪我したらしいの。骨には異常ないと思うけど、念のため病院に連れて行った方がいいって……」
かおりはそう言うと、スマホを手に取り、まりかに電話をかけた。
呼び出し音が数回鳴った後、「おかけになった電話は電波の届かない場所にいるか電源が入っていないためかかりません」というアナウンスが流れた。
「まりか、図書館にいるからかスマホの電源を切ってるみたい。家の鍵を持ってないんだけど……」
「わかった。まりかがいつ帰ってきてもいいように、かおりは家に居て。蓮は、僕が病院に連れて行くから。」
「そうしてくれる?先生も軽い怪我だっておっしゃってたから大丈夫だと思うけど何かあったら、すぐに連絡してね。」
「わかった。」
「じゃ、俺も帰るわ。蓮君、お大事に。」
ふと、夕陽に染まった由梨の横顔が目に浮かんだ。今日は、海には行けないだろう。彼女のことは気になったが、蓮を放っておくことはできない。正直、ホッとしている自分もいた。
今日を逃しても、次の水曜がある。直前にはなるが、8月4日のことは、その日に決めても良い。でも、きっと……臆病な僕は、あの海から出ることはできないだろう。
誰もいない静かな海で、バースデーケーキを食べている由梨と僕……なんともシュールな光景だ。そんな空想をしながら、蓮の学校へと車を走らせた。
09 第3章 たゆたう(3)憂い