15 第6章 波の彼方へ(1)ノスタルジア
2年後の夏――
この日、まりかが大学進学で家を出てから恒例行事になっている、月に一度の、藤野家の食事会が<-La mer bleue->で行われようとしていた。
<-La mer bleue->は、海岸沿いの傾斜地に建っている、玄関が2階にある少し変わった造りの店だ。2階がカジュアルフレンチ、店内に設けられた緩やかな螺旋階段を下りると1階はオープンエアのカフェになっている。カフェの前にはビーチが広がり、等間隔に並べられた目が覚めるようなブルーのパラソルが南フランスのリゾート地に来ているようだと最近注目を浴び始めている店でもあった。
「予約している藤野ですが、まだ早いのでカフェの方にいます。」
予約時間よりかなり前に店に到着したかおりとまりかは、受付のスタッフにそう告げると1階に下りて行った。
******
「よく見つけたわね、こんな素敵なお店。」
「一度だけ連れて来てもらったことがあるの。」
「大学のお友達?」
「違う……」
「わかった。男の子でしょ。まりかも大学生なんだもの。そういう人がいても不思議じゃないわね。」
「でも、きっと私の片思い。誘うのは、いつも私の方だもん。」
「誘えば会ってくれるんでしょ?最近はそういう男性も多いらしいわよ。乙女系男子って言うんだって。」
「私のことはいいの。ママはどうなの?離婚して、もうすぐ2年でしょ。誰かと恋愛すること考えたりしない?」
「今は仕事が楽しくて、そんなこと考えている暇なんてないかな。いつか恋愛することがあっても、一緒にいて楽しい友達のような人と、好きな時に会える自由な関係が理想。」
「石崎さんは?私は、石崎さんがいいと思う。」
「えー?石崎君?ないない。あの年まで結婚もせずにふらふらと生きてきた人よ。自由な関係がいいって言っても、相手は、愛に誠実な人でなくちゃ。石崎君は正反対じゃない。」
「ママ、それは偏見だし、石崎さんのこともわかってない。それに、さっきママが話してた理想的な相手じゃない。石崎さんとなら既存の恋愛の形に縛られずに楽しくやっていけそう。石崎さんのママへの気持ち、気づいてるんでしょう?」
「石崎君が私のことを好きだって言いたいの?離婚するって話した時、石崎君必死で止めたのよ。そんなはずないじゃない。」
「ママは本当にわかってない。止めたのは、ママのことを大切に思って心配していたからでしょ。」
「そうかなぁ。きっと、まりかの勘違いよ。」
とぼけているのか、そんなまりかの話に適当な返事をしながら、かおりは遠くに行き交う船を楽し気に眺めていた。
******
照りつけていた太陽が徐々にその姿を隠し始めた。
真昼とは違ったカフェのしっとりした照明と落ち着いた雰囲気がそんな気持ちにさせたのか、まりかはずっと疑問だったことを思い切って訊いてみることにした。
「ねぇ、ママ。前からどうしても訊きたかったことがあるんだけど。」
「パパや蓮がいる時には訊けないこと?」
「うん。」
いつもと違う、まりかの神妙な面持ちに、何かを感じ取ったかおりが
静かに頷いた。
「今更だけど、どうして、ママの方から離婚を言い出したの?パパは、ママのことを裏切ったわけじゃないのに。」
「もう、まりかも大人だと思うから話しても大丈夫かな……。ママもね。パパとお付き合いをする前に、家庭がある男性を好きになったことがあるの。」
「うそっ、ママが不倫!?」
他にいた数組のゲストがちらりと二人を見た。
「ちょっと、声が大きい。それに何もなかったから安心して。」
「ごめん。」
二人は、周りを伺うようにして顔を寄せ合った。
「ママが幾つくらいの頃の話?」
「社会人になって1年目から2年目にかけてくらいのことだから、23から24くらい?初めて大人の男性に恋をしたの。思いがけず二人きりになる機会があって、思わず気持ちを打ち明けてしまったけど、何もなかったように大人の対応をされちゃった。当然よね。彼には大切な家族がいたんだもの。
何かが起こった時、どの立場でいるかによって見える世界は全く違うのかもしれない。あの時の私は、彼の立場や彼のご家族のことを考える余裕もなくて、自分の胸の痛みにばかり矢印が向いていた。パパと由梨さんのことを知った時、なぜか妻という立場より、家庭がある男性を好きになってしまったあの頃の自分と由梨さんを重ねてしまった。由梨さんの気持ちが痛いほどわかって苦しかったなぁ。」
「ママは、その人のことが本当に好きだったんだね。どんな人だったの?」
「彼は、職場の上司だったんだけど、仕事ができるのはもちろん、自然体で嫌味がなくて誰からも慕われるような素敵な人だった。社会人に成りたてで慣れないことばかり、毎日が緊張の連続だったけど、そんな中でも彼がいるだけで頑張ることができた。誰かを好きになると、心が躍ったり、今まで見ていた世界が急に輝き出したりするって言うじゃない?一緒に仕事をしていると、自分もできる社会人に成れた気がした。今考えると、彼がすべて陰でフォローしてくれていたんだけどね。夏の花火みたいに、視界いっぱいに次々と光の花が咲くような、そんな恋だったなぁ。」
「夏の花火……ママは素敵な恋をしたんだね。そこから地味で平凡なパパを好きになったのが不思議だけど。」
「どうして?パパにはパパの良さがあるのよ。パパは、一緒にいると小雨が降るように小さな幸せが降り続いているような心地良さがあったの。じゃなきゃ、結婚なんてしないわよ。」
「それは、わかる気がする。パパが私のパパで良かったって思うもん……。だったら、尚更どうして離婚なんて……」
「それは……さっきの質問の答えになるわね。まりかは離婚の原因が由梨さんだと思っているかもしれないけど、違うのよ。本当は、パパと由梨さんのことを知るずっと前から、藤野の家を出ようと考えていたんだから。」
「えっ、どういうこと?ママは幸せじゃなかったの?」
「幸せだったわよ。でもね、何かが足りないって気づいたの。ずっと、私の幸せは家族が居心地の良い家を作ることだと思っていたけど、それって私の本心なのかな?って。妻として母として生きるためだけに、今私はここに存在しているの?って、そんな風に自分に対して違和感を覚えるようになった。」
「以前の私は、藤野の妻として、まりかや蓮の母親として、世間や他者から求められている自分像に無理やり自分を合わせて生きてた。その役割はオプションであるはずなのに、それは、いつからか社会に見せる仮面や鎧となって本当の自分を隠して生きているみたいに思えて、自分を生きるってどういうことか考えた始めていたの。」
「もちろん、簡単に離婚すると決めたわけじゃない。人生に失敗したかのように思われるんじゃないかって、不安や迷いもあった。今でも十分すぎるほど幸せなはずなのに、それを手放してまで私が得たいものは何なのかって真剣に考えた。正直、それは、今でもこれだという答えが出たわけじゃない。ただ、他人の評価でしか自分を認められない自分自身を変えたかった。まりかや蓮、パパのことを傷つけるかもしれないと思ったけど、自分の気持ちを抑えられないところまで来ていた。」
「離婚した後も、もうそんな時代じゃない。今は昔と違っていろんな価値観がある。と言ってくれる人もいたけど、自分の基準や価値観を押し付けて否定するような人にも会った。傷ついたりもしたけど、その経験は今の幸せに繋げるためには必要な経験だったと、今は思える。」
「今の私が言えることは、誰に何を言われたとしても答えはいつも自分の中にある。いろいろな人の価値観が自分を押しつぶそうとしても自分の本当の願いは心が知っている。」
「まりかもそう気付いたから、夢を諦めなかったんでしょう?水族館の求人は極めて少ないし、運次第だって言われても水族館で働きたいっていう自分の気持ちに嘘はつけなかった。蓮だってそうよ。ゲームを作る仕事に就きたい人は大勢いるし、難しくて大変な世界だってわかっていながら、今自分にできることを探して頑張ってる。」
「いつか、二人が夢を諦めそうになったり、壁にぶつかって何かに迷うことがあったとしても、夢を追い始めた頃の気持ちを忘れないでほしい。」
「ママがそんなこと思っていたなんて……。ママが離婚したいって言い出した時、パパと由梨さんのことがあって、ママは強がっていただけで本当は傷ついてたんじゃないかって思ってたから……。
ママがいつも家にいてくれたことに甘えて感謝することを忘れてた。ママが悩んでいたことに気付けなくてごめんね。」
「ううん。偉そうなことばかり言っちゃったけど、まりかや蓮がもっと小さかったらこんな決断ができたかはわからない。石崎君みたいに何でも相談できる友達もいて、やりたい仕事にも就けている。いろいろな条件がクリアできていなければ今はなかったのかもしれない。私の我儘に付き合ってくれて、支えてくれているみんなに感謝しなきゃいけないのは私の方よ。
そういうわけだから、私に気兼ねなんてしないで由梨さんと会ってね。」
「え?」
「まりか、私に内緒にしてるけど、今でも時々由梨さんと会ってるでしょ。」
「知ってたの?」
「何となくね。」
「由梨さんは、私が高校生の頃、自分の夢を誰にも話せないでいた時に、力になって励ましてくれた唯一の人なの。――夢は諦めなければいつか叶う。私がそうだったように――って。」
「まりかのこと本当に大切に思っていてくれたのね。由梨さん、お元気にしてる?」
「うん、元気にしてるよ。」
「じゃあ、あと、問題なのはパパだけね。」
「そうだね。パパって優柔不断で周りに流されがちなようで、めちゃくちゃ意地っ張りなところもあるでしょ?離婚は自分のせいだと思って、今でも頑なに自分の幸せを放棄しているように見えるもん。そう考えると、面倒くさい性格よね。」
「そう?ママが知っているパパは、誰にでもやさしくて誠実で思いやりがある最高の人よ。ただ、繊細すぎて傷つきやすいところが心配。」
「離婚したのに惚気てる。」
「本当ね。」
かおりとまりかがこんなに近くで顔を見合わせて笑っているのは久しぶりのことだった。離婚後、気付かずにお互いの中に生まれていた小さなひずみやわだかまりが解けていく――
「あと一つだけ言っておくけど……まりかと蓮、パパと過ごした日々は、私の宝物だし、それは、これからもずっと変わらない。」
「うん、わかってる。」
「あら、そろそろパパや蓮が着く頃よ。2階に戻りましょう。」
そんな、女同士の密かな話し合いが持たれていたことなど知る由もなく、僕は約束の時間より5分遅れで<-La mer bleue->に到着した。
16 第6章 波の彼方へ(2)それぞれの道