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10 第4章 on the shore(1)スターマイン

「仕事終わりで疲れているのに、来てもらって悪いな。」
「これくらいのことなら、いつでも協力するさ。」
藤野家の玄関で立ち話をする優一と石崎。

「お待たせしてごめんなさい。」
奥の部屋からかおりが姿を現した。

淡いジェイドグリーンのワンピースに身を包み、シンプルでモダンなピアスが耳元で揺れている。

「こんなに時間をかけて身支度したの、久しぶりよ。」
玄関の鏡に映る自分を眺めながら、かおりはいつになく華やかな気分になっていた。

「こうして見ると、かおりは独身の頃とちっとも変わらないな。とても綺麗だ。」
本心だとしても、夫の前でこんなに自然にその妻を褒めることができるのが石崎らしい。

「そんなわけないじゃない。からかわないで。」
そう言いながらも、かおりは照れくさそうにほんのり頬を赤らめた。

「まりかも蓮も、それほど手は掛からないと思うけど、わがままを言ったりしたら遠慮なく叱ってね。蓮は、まだ無理をすると治りが遅くなるから動き回るようだったら注意してくれる?あとは……」

「本当に心配性だなぁ。大丈夫だって。ほら、もう行かないと。タクシーを待たせているんじゃないか?」
石崎が急かすように僕たちを玄関の外に追いやった。

家の前の道に出ると、ちょうど予約していたタクシーが滑り込んできた。
「遅くなりました。少し道が混んでいるみたいです。」

国道に差し掛かると、長い渋滞ができていた。
「7時の予約に間に合いますか?」

「難しそうですね。歩かれた方が早いかもしれません。」
タクシー運転手のすすめで、優一とかおりは車を降りて歩くことにした。

「見て。綺麗……。」
すっかり陽が沈んだ空に、夜が近いことを知らせる群青が目に映る。
海沿いを歩き、ダイニングカフェ<-on the shore->に到着したのは予約時間を10分程過ぎた頃だった。

店の中に入ると、白のドレスシャツにネクタイ、黒いベストを着た男性が笑顔で迎えてくれた。
「ご予約の方でしょうか?」
「遅くなりました。藤野です。」
「承っております。お席までご案内致します。」

店内は、天井が高く、想像していた以上に広々としていた。海側の窓は全面開放され、風が心地よく通り抜けている。その先にあるテラスには赤く燃え上がるトーチの炎がくっきりと浮かび上がり、リゾート地にある高級ホテルのダイニングのような雰囲気だ。

「石崎君に言われた通り、おしゃれして来て良かったわ。昼間は、小さな子供連れも入れるカジュアルなお店だって聞いていたから迷っていたんだけど……」

ドレスコードがあるわけではないが、店内のゲストを見ていると、年齢やジェンダー問わずおしゃれを楽しんでいそうな人たちが目立つ。おしゃれというより人生を楽しんでいると言った方がいいかもしれない。

******

美しく盛り付けられた料理と繊細な泡が立ち上るシャンパン。予定に追われる日常と喧騒から距離を置いた夜、久しぶりに二人は、緩やかに流れて行く時を楽しんでいた。

「そうだ……肝心な事を言ってなかったな。――かおり、お誕生日おめでとう。」

「ありがとう。今日は本当に来て良かったわ。お料理もおいしかったし、凄く楽しかった。石崎君にも感謝しなきゃね。」

シャンパングラスを持つかおりの手が目に入った。
肌馴染の良いピンクベージュのネイルが、かおりの白く細い指に似合っている。

「あっ、これ?今日だけよ。こんな日くらいしかできないもの。ネイルなんてしてると、家事の邪魔になるだけだから。」
優一の視線に気づいたかおりは、そう言って物憂げに指先を見つめた。

店のスタッフが近づいてきた。
「この後、近くで花火が上がるようですので、店内の照明を落とさせていただきたいのですが……よろしければ、テラス席の方に移動されてはいかがでしょう?」

「素敵。そうしない?」
「そうだな。」

店のスタッフに足元をペンライトで照らされ、テラス席に案内されると、
花火を観やすくするための店の配慮で、既にトーチの炎も消されていた。

海に面した最前列には、適度に間隔が開けられたカップル席が3つ。
その後ろに広々としたソファ席が幾つか並び、遠くに見えるマリーナの微かな明かりが数組のゲストのシルエットをぼんやりと浮かび上がらせていた。

僕たちは、店のスタッフが僕たちのテーブルから運んでくれたシャンパンを飲みながら花火を待った。

しばらくすると、パーンという渇いた破裂音を始めに、漆黒の空のキャンバスに色とりどりの幾何学模様が咲いては散って視界を覆い尽くした。

その空は、かおりを、かつて思いを寄せていた上司、亡くなった本宮との記憶の中へ誘った。

******


――施主宅から、社用車で移動していた時のことだ――

「遅くまで付き合わせてしまって申し訳ない。お客様が、以前うちで家を建てられたお知り合いの方から君の話を聞いていたらしくてね。是非、君にも同席して欲しいとおっしゃって……今日は来てもらって助かったよ。」

「いえ、私も勉強になりました。久しぶりに本宮さんとお仕事ができて嬉しかったです。」

「この後、僕は社に戻るけど、君は直帰でいいから。近くの駅まで送ろう。それにしても、今日はやけに道が混んでいるね。」

「本当ですね……全然動かない。」

その時、窓の外が一瞬明るくなると、ドドーンという音が鳴り響いた。

「あっ、あそこ……花火が上がっています。」
南の空に花火が見えた。

「花火かぁ……きれいだなぁ。」
大小様々な形の花火が打ち上げられ、夜空を彩っている。

「本宮さん……」
本宮が振り返ると、かおりの唇が本宮の唇に重なろうとしていた。
とっさに身をかわす本宮。

「おいおい、いきなりどうした?」

「本宮さんが好きです。本宮さんのお時間を少しだけでもいい、私にください。」

「君らしくない。上司をからかうなんて……」
本宮は、困惑の表情を浮かべていた。

春の人事異動で、かおりは設計部から営業部へ異動になっていた。思いがけずにできた本宮との二人だけの時間に、花火がトリガーとなって気持ちを抑えられなくなったのだ。

「……ですね。花火くらいで気持ちが昂るなんて、どうかしてました。きっと、夏のせいです。忘れてください。」
そう言って、かおりは、気丈に振舞った。

その後、本宮は、かおりを駅に送る間中ずっと娘の話をし続けた。
それ以上かおりを傷つけないように、自分には大切な家族がいて、その気持ちには応えられないと遠回しに伝えたかったのだろう。

夏の花火のようなかおりの恋は、その日終わりを告げた。


******

ヒューン……パチパチパチ……ドドーン……ヒューン……バチバチバチバチ……ヒュ……バチバチバチバチバチバチ……………………………………

歓声と共に最後の花火が終わった。再びトーチに炎が灯され明かりが戻ると、テラスのあちこちで会話が始まった。

「最後のスターマイン、まるで万華鏡みたいだったわね。」
漆黒の空に戻った空を見上げながら、かおりが言った。

その時、ソファにもたれかかっていたかおりが、何かに気づいたように体を起き上がらせた。

「――由梨さん?」
かおりが斜め前のカップル席に座っていた女性に声を掛けた。
女性は一瞬身を固くしたように見えたが、ゆっくりと振り返る。

「やっぱり……由梨さんもいらしてたの?花火綺麗だったわね。」

「ぁ……はぃ……。」

「紹介するわね。夫の優一さん。まりかの父親よ。こちらは川島由梨さん、まりかの……」

「は…はじめまして。あの……すみません。急ぐので失礼します!」
かおりの言葉を遮るようにそう言うと、由梨は、足早にテラスから出て行ってしまった。由梨と一緒にいた青年は、僕たちに会釈をすると、由梨の後を追いかけて行く。

「急に声をかけて驚かせちゃったのかしら。悪いことしたわ。」

「…………。」

僕の心臓はバクバクと大きな音を立てていたが、かおりには聞こえていないようだった。

由梨とかおり…まりかまで、いつから知り合いだったのだろう。一緒にいた青年は、由梨とはどういう関係なんだろう。彼女から感じていた好意は、僕の勘違いだったのか?だとしたら、僕に家庭があることを知って驚いたのだとしても、あんなに慌てて立ち去る理由が見つからない。いくつもの疑問が僕の中を駆け巡った。

「少し飲み過ぎたみたい。酔いが冷めるまで、もう少しここにいていい?」
僕の返事を待つでもなく、かおりはソファに身を委ねている。

僕たちは、目の前にいる相手より、別の誰かに思いを巡らせていたことを互いに知らずにいた。

「ガシャン!」
ステンレス製のシャンパンクーラーの中の氷が、水に溶けて崩れ落ちていく音がした。

11 第4章 on the shore(2)渇き


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