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16 第6章 波の彼方へ(2)それぞれの道

「ごめん、遅くなった。」
「大丈夫よ。蓮もまだだから。」
「そうか。まりかは大学の方はどうだ?」
「楽しいよ。実習は大変なことも多いけど、実践的な知識や技術も学べるし。秋には潜水士の国家試験を受けようと思ってる。」

窓から見える海が、徐々に暗さを増していく。昼間の喧騒とは違い、まるで船旅をしているような錯覚すら覚えるほどに静かだ。

約束の時間から10分ほど過ぎた頃、3人のスマホが同時に鳴った。
蓮から家族のグループラインにメッセージが入ったのだ。

<ごめん。人手が足りなくて、どうしてもバイトを抜けられそうにない。>

「今月は、特別にこんな素敵なレストランを予約したのに。」
まりかが不満そうに呟く。今日は、かおりの誕生日祝いも兼ねた食事会だった。

「いいのよ。蓮もいろいろ大変なんだから。」
「蓮、いつからバイトなんて始めたんだ?」
「最近よ。大学を卒業したら、独り暮らしがしたいって言い出したの。そのための資金を貯めたいんだって。」
「まだ随分時間があるのに、蓮にしては計画的よね。最近、ママのこともパパのこともお父さん、お母さん、なんて呼び方も変えちゃって、大人になったつもりなのかな。」
「いつまでも、パパ、ママと呼ぶのが恥ずかしくなったんじゃない?男の子にしては遅いくらいよ。」
「私は、これからもパパ、ママって呼ばせてもらう。私にとっては、その方がしっくりくるんだもの。」
しっかり者のまりかだが、こういう所は、まだまだ子供っぽさが残っていた。

あれから2年。
蓮は、ゲームクリエイターになるために情報工学部がある大学に進学。
まりかは就活のための準備に忙しい。かおりは、石崎の姉の紹介で住宅設備のショールームで働いているが、この春の昇進試験に合格し、現在はフロアリーダーとして責任ある立場になり、それぞれが、優先すべき自分の課題と向き合うことが多くなっていた。

「そろそろ、みんなの予定を合わせて食事会をするのも難しくなってくるわね。これからは月に一度とか全員揃ってなんて拘らずに柔軟に考えなきゃいけないかしら……」

******

「今日も暑いな。」石崎がやって来た。
「もしかして、俺を待っててくれたの?営業先でつかまっちゃってさ。悪いなぁ。」
料理が一つも並んでいないテーブルを見ながら、石崎は席に着いた。
「石崎さんを待ってたわけじゃないよ。蓮を待ってたんだけど、今来れないってLINEがあったの。」
「まりかちゃん、大学生になってから性格きつくなってない?こういう場合の返事は曖昧な感じにしてくれると嬉しいんだけどなぁ。」
「ごめん。石崎さんは家族も同然だから、気を遣うの忘れちゃう。」
「はいはい。そういうところだけは家族扱いね。」
石崎は、不満そうにしながらも、どこか嬉しそうだった。

石崎は毎回欠かさず藤野家の食事会に顔を出している。僕もかおりも不思議に思っていたが、お互いに相手が知らせているんだろうと気にもせずにいたが、実は、まりかがこっそり食事会の日時や場所を石崎に教えていたと知ったのは最近のことだ。

「そうそう。これからは、月一の家族全員揃っての食事会は無理かなって話してたの。」かおりが言った。
「え、なんで!?」
「それぞれが忙しくなって、他に優先しなきゃいけないことも増えてきたから、みんなの予定に合わせようとすると、お互い無理して負担になっちゃうじゃない?」
「そういうことなら仕方ないか……寂しくなるけど。」
「食事会がなくなるわけじゃないよ。あくまでも柔軟に考えて、臨機応変にってことだから。」
わかりやすく落胆している石崎にまりかが言った。

「石崎さんって、見かけによらず寂しがり屋なところあるよね。彼女と別れて随分経つのに好きな人くらいいないの?」
「まりかちゃん、突然だなぁ。いるよ。相手にされてないけど。」
珍しくいじけたような口ぶりで石崎が答えた。
「そうなんだ。私で良かったら相談に乗るからいつでも言って。」

石崎は、長く半同棲状態だった彼女と2年近く前に別れていた。彼女は、30才を過ぎてもなかなかプロポーズをしない石崎に見切りをつけたのか、密かにマッチングアプリで新しい出会いを求め、出会ってから半年後にはゴールインという早業で石崎の元を去って行ったらしい。去る前に彼女が石崎に残した言葉は、――一度も私を見ようとしてくれなかった――らしい。

「俺より藤野の方が心配だな。なんか、最近痩せた気がするぞ。ちゃんと飯食ってるか?」
「疲れてるとつい面倒でさ。夜を抜いたりしてたからかな。これからは気を付けるよ。」
「そろそろ健康管理してくれる人が必要かもしれないな、藤野みたいなタイプは。」
石崎の言葉に、僕は苦笑いするしかなかった。

「そういうこと元妻と娘の前で言う?」まりかが笑った。
「ごめんごめん。でも、ちょっと心配になっちゃってさ。」
「でも、私も、いつまでもパパが一人でいると心配。ママのことは、全然心配にならないけど。」
「あら、ママのことも心配してよ。蓮が家を出て行ったら、私の場合は外食ばかりになって太っちゃいそう。」
「そういうことじゃなくて……」

「蓮君、家を出るの?」
「大学を卒業してからの話だけどね。独り暮らしがしたいんだって。こんなに早く蓮まで家を出て行くなんて考えていなかったけど、時期が早くなったと考えるしかないわね。」

「ママも成長したじゃない。私が大学の寮に入る時、あんなに抵抗してたのに。」
「そんなこともあったわね。」
「じゃあ、俺とシェアハウスするっていうのはどう?俺、わりと家事得意だしさ。」
「ママ、それ、いいじゃない。蓮よりは頼りになるよ。」
「まりかちゃん、さっきから言い方……」
「そうね。石崎君だったら気兼ねもないし、シェアハウスもいいかも。」

本気なのか冗談なのかわからない会話が続いていたが、みんなが楽しそうに笑い合っている様子を見て、胸の奥が温かくなっていた。

家族のかたちやルールなんてものは、本当は無くていいのかもしれない。
世間体や社会からの無言の圧力と感じるものも、自分が勝手に想像して作り上げてる幻だ。みんながそれぞれ自分を大切にしながら、相手のことも思いやることができていたら家族としてちゃんと成り立っている。2年経ってやっとそう思えるようになっていた。

******

「今日も楽しかったね。お料理もおいしかったし、セッティングした私、Good job!」
「そうね。蓮にも食べさせたかったわ。」
「まりかは、いつまでこっちにいられるんだ?」
「夏休みだから、しばらくは実家で過ごすつもり。ママとの積もる話もあるし。パパと石崎さんは、この後どうするの?」
「まだ時間も早いし、俺たちは、ちょっと呑みにでも行くか?藤野の都合が良ければだけど。」
「明日は、朝から打ち合わせが入ってるけど、1、2時間くらいなら大丈夫だ。」
「だったら、この下のカフェがいいんじゃない。夜はちょっとしたバーになってるみたい。」
「じゃ、下に行ってみるか。」
「そうだな。」
「石崎さん、手の掛かるパパだけど、よろしくね。」

(店に呼んでもらったタクシーが到着した。)

「じゃあ、二人とも気をつけてな。」
「かおりもまりかちゃんもまた近いうちに。蓮君にもよろしく言っといて。」

かおりとまりかは、タクシーに乗り込み帰っていった。

******

海からの風が心地良く店内を吹き抜けて行く。時々、月が照らした船が通り過ぎて行くのが見えた。

「もうすぐ2年だな。」
「うん……早いな。」

2年前、かおりが離婚したいと言い出した時、一番反対していたのは石崎だった。

「あの頃は、人の家庭に口を挟んで悪かった。」
「いや、いいんだ。」
「藤野はこれからどうするんだ?」
「まだ、先のことなんて考えられないよ。今はただ、家族が幸せでいてくれることを願うだけだ。」
「当時は、あれこれうるさく言ったけど、お前たちは、お互いの自由を尊重する選択をしただけだ。かおりは、やりがいのある仕事にまた就けたって生き生きしているし、まりかちゃんや蓮君も親離れする機会が訪れただけだろ。今でも家族として大切に思う気持ちがあるなら、それで十分じゃないのか。」
「そうは言ってもな……。」

「あれから、彼女……由梨さんとは連絡取ってないのか?」
「取ってない。そもそも連絡先なんて知らないしな。」
「そうだった。お前らしいけど、本当にそれでいいのか?」
「良いも悪いも、もう終わったことだ。」

僕は、彼女の左手薬指に光るリングを思い出していた。

******

深夜0時を過ぎた頃、最近はLINEで済まされることも多くなっていた蓮から
電話がかかってきた。

「今日は行けなくてごめん。」
「会おうと思えばいつでも会えるんだから気にしなくていい。それより忙しいみたいだけど体には気を付けるように。お母さんも心配してたぞ。」
「ありがとう。お父さんもね。それから、バイトのこと黙っててごめん。卒業したら独り暮らしを始めようと思ってて……」
「ああ、お母さんから聞いたよ。」
「そう言えば、僕が独り暮らしを始めたら石崎さんとシェアハウスしようかなって、お母さんが言ってた。僕が、まりかの部屋が空いているんだし、今からでもすればって言ったら、そうねって。石崎さんなら、僕も気を使わなくて済むし、僕が出て行った後も、お母さんを一人にせずに済むから……
お父さんはそれでいい?」

昼間みんなが話してたことは、冗談じゃなかったんだ。
僕は、寂しいようなホッとしたような、おかしな気持ちだった。

「それでいいよ。女性の独り暮らしは心細いこともあるだろうから、石崎がいてくれるなら安心だ。」
「そう。だったら、お父さんもお父さん自身のこれからのことを真剣に考えてよ。」

蓮が石崎と同じようなことを言ったことに僕は驚いていた。

「お父さんは、これからの自分の人生をどうしていきたいと思っているの?いったい何に縛られているの?みんなそれぞれの道を歩いているのに、自分だけ時間が止まっているような気がしない?」

――蓮からはそう見えているのか――

「お母さんから離婚を言い出したことで、お父さんは自分に原因があったと思っているのかもしれないけど、それは違うよ。お母さんが言ってたんだ。「誰のせいでもない。これからの人生は自分の為に行きたいの。」って。
もし、お父さんの何かが離婚のトリガーになったのだとしても、もう時効だよ。今日はそれが言いたかったんだ。」

2年前の春。まりかが家を出る直前、内緒でまりかのパソコンを使っていた蓮は、偶然まりかの日記を見てしまったことがあった。そこには優一と由梨の一連の出来事、かおりやまりかの心情が記されていた。蓮は知っていたのだ。

たった2年なのに、子供だとばかり思っていた蓮がいつの間にか大人になっていた。みんなが自分自身と向き合い、これからの人生を真剣に考えているというのに、僕だけが宙に浮いているかのように現実を見ていなかった。

「じゃ、明日も早いからもう切るね。おやすみ。」

「おやすみ。」


――もう時効だよ――

蓮の冷たいようで温かい言葉が、僕の錆び付いて堅く閉じられていた心の鍵を開けてくれたような気がした。


17 最終章 潮騒

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