02 第1章 夏の気配
「今何時?」
キッチンに立っているかおりが、まりかに訊いた。
「う……ん、7時くらい?」
まりかは上の空で返事をする。
「今日は、ちゃんとお片付けしてね。」
娘のまりかは、ダイニングテーブルの上でパソコンを開いていた。高校の入学祝いにリクエストをして買ってもらった自分専用のパソコンだが、自分の部屋よりも居心地が良いこの場所でパソコンを触っていることが多く、いつもダイニングテーブルの上に置きっぱなしにしては注意されている。時々、弟の蓮が内緒で使っていることにはまだ気づいていないらしい。
かおりがテレビを点けると、ちょうど夜7時のニュースが始まった。
「神奈川県の砂浜に毒クラゲの一種であるカツオノエボシが次々と漂着し警戒が強まっています。」
男性キャスターが神妙な様子で伝えると、神奈川県鎌倉市・由比ヶ浜の海岸からの中継画面に切り替わった。
薄闇の中、ライトに照らされ、点々と海岸に打ちあがっている半透明の青いビニール袋のようなものが、画面いっぱいに映し出されている。
女性レポーターが話し始めた。
「こちらはカツオノエボシといわれる毒クラゲなんですが、刺されますと電気ショックを受けたような痛みが走り、二度目に刺されますとアナフィラキシーショックを起こし、死に至るケースもあるようです――。」
かおりとまりかは、その光景にくぎ付けになっていた。
「ママ、見て。すごくきれい。」
まりかが開いていたパソコン画面に、カツオノエボシの写真が映し出されている。
かおりは、まりかの隣に座りパソコンを覗き込んだ。
「本当ね。海のそばに住んでいるのに、こんなに美しい生き物が存在することを知らずにいたなんてね。」
「これなんてソーダ水を入れるガラス瓶の欠片みたい――。」
まりかは、幾つもの写真の中から、ひと際透明で美しい個体を指さして、目をキラキラさせていた。
「この毒クラゲを捕食する兵までいるんだって。ア・オ・ミ・ノ・ウ・ミ・ウ・シ?――美しいその姿から青い天使と呼ばれることもあるが、カツオノエボシを捕食し、その毒を自身の武器としても用いる――。」
「地球上の生物じゃないみたい。蓮がやってるゲームのキャラクターになってもおかしくないくらいね。」
次から次へと興味がつきないとばかりに、まりかもかおりもパソコンの中の美しい生き物たちに夢中になっていた。
そこへ優一が帰ってきた。「ただいま。」
「おかえりなさい。蓮がまだなの。夕食の時間までには帰るって言ってたんだけど、ちょっと遅いわね……」
その時、バタバタと階段を駆け上がる音を響かせて蓮がリビングに入ってきた。
「ただいまー。まりかの知り合いは……帰ったの?」リビングを見渡しながら蓮が言った。
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藤野家は、優一と妻のかおり、高校3年になる娘のまりかと2つ違いの弟で高校1年の蓮 の4人家族。
家は、建築士である優一が設計したものだ。水回りや個室などのプライベートな空間を1階に配置し、2階にあるLDKを吹き抜けにしてトップライトをつけた。そうすることで、プライバシーを守りながらも開放感が得られる造りになっている。家の中に居ながらにして、雲の流れや季節の移ろいを感じられるリビングが家族みんなのお気に入りの場所になっていた。
家の中は、かおりのセンスで、シンプルにまとめられている。 キッチンは、隠す収納を採用し、冷蔵庫以外のほぼすべての物が扉の向こうにある。ダイニングには、4人掛けのテーブルとチェア、リビングには、55型の少し大きめのテレビとエクリュカラーのソファ、他にホワイトオークのリビングボードがあるくらいだ。
殺風景にならないのは、リビングボードの上に家族写真や季節の花が飾られ、家の新築祝いでいただいたオリーブの木やウンベラータ、ストレリチア・オーガスタといった観葉植物たちが北側屋根に設けられたトップライトからの柔らかな光を浴びて彩りを添えているからだろう。
中でも、ウンベラータは、今では2m近くにも育っている。
ラテン語のumbellaが起源で、日除けという意味があると、いつか、かおりが話していたが、その名の通り大きく育った葉が影を作り、癒しの空間を作っていた。
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「さっき話してた、まりかの知り合いって?家に来てたの?」
優一がかおりに尋ねた。
「そうなの。まりかがお世話になってる方なんだけど……学校から帰る途中、駅でばったり会ったからって、何の連絡もなく急にお連れするんだもの。驚いちゃったわ。」
「だって……前に話した時は、早めに紹介してねって言ったの、ママじゃない。」
「それは言ったけど、来るとわかっていたら、それなりの格好でメイクもしておいたわよ。初めてお会いする方の前で部屋着にすっぴんだなんて恥ずかしいじゃない。」
独身時代のかおりは、おしゃれに気を使っていた方だが、専業主婦でいる期間が長くなるにつれて、家に居る時にはどうしても着心地が最優先になり
薄着になる季節は、洗いざらしのコットン100%のTシャツと、リネン素材や8オンスの薄いデニム素材でできたミモレ丈のスカートが定番になっていた。
「ママはそのままで大丈夫だよ。元の素材がいいんだから。」
まりかが言う通り、かおりは上品で洗練された雰囲気を持ち合わせていた。
何を着ていても、それなりの空気感を醸し出してしまうのだ。
独身時代は相当モテただろうと想像していたまりかは、かおりの方から優一に逆プロポーズをして結婚に至ったという話を聞いた時は驚きを隠せなかった。
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まりかが通う高校は理系が強く、理系に特化した職業説明会が、学年に関係なく不定期で開かれていた。この学校のOBやOG、時には外部からも人を招いて、大学や学部の選び方、就職するまでのアプローチの仕方や具体的な仕事内容を話してもらうなど、将来に向かい、生徒たちの疑問や不安を解消するための様々な取り組みが行われていた。
説明会と言っても、一方的に説明を受ける堅苦しさはなく、クラスごとに座談会形式で質疑応答も入れながら進行していく和気あいあいとした雰囲気の中で行われているのだが、まりかは、その職業説明会で知り合った人と職場見学の時に再会したことがきっかけで、時々連絡を取り、進路の相談をするようになっていた。
「お世話になってるって……?」
「まりかが2年生の時の職業説明会と職場見学でお世話になった方で、今でも親しくさせて頂いているんですって。だから、お付き合いが始まって1年くらいになるのよね?」
まりかは、パソコンから目を離さずにこくりと頷いた。
「お付き合い!?」優一は驚いて聞き返した。
まりかが返事をしないので、かおりが続ける。
「お付き合いと言っても、時々お茶しながら進路の相談に乗ってもらったりしているだけで……」
「そりゃそうだろ。社会人と高校生じゃ話も合うわけがないし、まともな社会人が女子高生と付き合うなんてめんどうなだけだ。」
かおりが話し終わらないうちに、優一が横槍を入れた。
「うわー、それって偏見!」やっと、まりかが口を開いた。明らかに不満そうだ。
「まだ社会人3年目なんですって。礼儀正しくて、とても感じの良い方だったわよ。私たちの頃の受験とはかなり違ってると思うし、相談にのって頂けるならありがたいわ。今日は時間がなくて、ご挨拶と世間話だけになってしまったから、今度あらためてお家にご招待したいんだけど……。心配なら、あなたも会っておいたら?」
「そうだな……でも、あれだ。まりかはまだ高校生なんだし、卒業するまでは適度な距離感を持ってだな……」
段々と小声になってしまったのは、優一には後ろめたさがあったのかもしれない。 まりかが高校生になった頃から、交友関係が急激に広がり始めていたことを気にはしていたが、男女間のことは女親の方が話しやすいだろうと、かおりに任せっきりになっていた。
「そうそう、ご両親は金沢にいらっしゃるんですって。お父様は金箔を貼る職人をされているらしいの。お店で金箔貼りの体験もできるみたい。ねぇ、夏休みにみんなで金沢に旅行しない?私、金沢に一度も行ったことないのよね。」
「えー、塾の合宿が終わったら、友達といろいろ計画も立ててるし、行くなら沖縄か北海道がいい。」
「俺も。部活あるし無理。」
「まりかと蓮には、まだ金沢の良さはわからないのかもな……。」
「行く口実ができたと思ったのに……残念。でも、伝統的なお仕事って、素敵よね。そういう人、周りにいないから憧れちゃうわ。」
「パパは、どうして建築士という仕事を選んだの?」
さっきまで、ほとんど口を開かなかったまりかが、優一に尋ねた。
蓮も興味があるのか、テレビゲームをしていた手が止まった。
「そうだなぁ。家族のひとりひとりが快適に暮らせる家がどういうものなのか興味を持ったからかな。今は、家族といってもいろんな形態があって、昔とはずいぶん変化した。個人の価値観の変化も目まぐるしいし、他人同士が住むシェアハウスも、これからどんどん増えていくだろう。おもしろそうじゃないか?」
優一は、小学校に上がる直前に両親が離婚、父親側に引き取られた。そのうち父親が再婚し、新しい母親との間に弟と妹が生まれた。義理の母は優しく大らかな人で、言葉通り、兄弟と分け隔てなく育てられたのだが、年が離れた弟と6畳の部屋を分け合うことになったのは、何かと都合が悪く、お互いに大変だった。
弟とは年が離れていたこともあり、喧嘩になることはなかったけれど
優一が受験の時は、遊びたい盛りの弟は友達を部屋に呼ぶこともできず
その頃から何かと遠慮しがちな関係になってしまっている。
大学生になり、独り暮らしを許可してもらった時の優一は、自由を手に入れたようでわくわくしたことだろう。
個人の自由を尊重しながら、お互いの温もりはいつでも感じられる――
そんな理想の家を、建築士を目指していた頃の優一は夢見ていたのだ。
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「まりかはどんな職業に就きたいと思っているんだ?それによって、進む大学や学部も違ってくるだろ?」
「まだ迷ってる。将来的に、AIによってなくならない仕事なのかも考えておかないと……」
最近、まりかの高校では、ブロックチェーン技術を活用したNFTやメタバースの話が持ちきりで、開発に携わるITエンジニアを目指そうとする男子生徒が多く、女子生徒の間では、Webに特化したプログラマーと食品や化粧品の研究開発に携わる2つの職業で人気を分けていた。
「前に話してた化粧品開発なんていいんじゃない?まりかが開発に携わった商品が、いつかCMに流れたりなんてしたら、知り合いに配って自慢しちゃうかも……」
「うん……そうだね。」
まりかにもやりたい仕事がないわけではなかったが、周りの友達との会話の中で、憧れと現実は分けて考えるべきだと、学年が進むにつれて思うようになっていた。
テレビゲームを再開していた蓮にかおりが声をかける。
「蓮だって、すぐに3年生なっちゃうんだから、そろそろゲームばかりやってないで少しは将来のことも考えてね。」
「俺は、遊びを仕事にすることに決めてるから――」
「は?何言ってんの?」まりかの声がリビングに響き渡った。将来を真剣に悩んでいる自分の前で、能天気な発言をしているかの様な蓮に苛立ったのだろう。
「中学まではeスポーツの選手を目指していたけど、俺にはその資質がないことがわかったから、ゲームクリエイターを目指すことにした。」
「蓮は、ただゲームがやりたいだけじゃん。」
「ゲームクリエイターになるには、いろいろなゲームを知って攻略しておく必要があるんだよ。それに……仕事って、人生の3分の1の時間と引き換えにするものだろ。だったら俺は、自分が好きなことを仕事にしたい。」
「パパも、好きなことを仕事にするのは賛成だ。まりかが言う通り、難しい問題があるのも事実だけど、人生の3分の1の時間を費やしてもやりたいことなら、どんなにたいへんな仕事でも乗り越えていけるだろうから。」
「私も、もう一度考えてみようかな……」
「あなた、あまり二人を煽らないでよ。安定も大事なんだから……」
優一と子供たちのやりとりを見ていて、かおりは密かにため息をついていた。 結婚する前のかおりは、夫の優一と同じハウスメーカーで営業職に就いていたが、結婚を機に仕事を辞め、専業主婦になっていた。家族4人で暮らすのに、優一の収入だけでもやっていけたが、子供たちに手が掛からなくなり、自分自身の時間が増えたことで、社会復帰を本気で考えるようになってから既に3年も経っていた。
仕事を辞めてから随分経つこと、年齢的にもやりたい仕事に就ける可能性は低い。昔取った資格は今でも役に立つのだろうか?そんなことばかり考えて、優一や子供たちにも話せないでいるのだ。
「さぁ、ふたりとも。そろそろお風呂に入っちゃって。」
「まりかが先に入ると長くなるから俺が先に入る。」
「蓮が先に入ると、お風呂の中が泡だらけになってて嫌なの。私が先!」
「風呂の中が泡だらけで何が悪いんだよ。変なこと言うな!」
まりかと蓮は、どちらが先に風呂に入るかで揉めている。
蓮の言い分はもっともだと優一が無意識に頷いていると
それに気づいたまりかに睨みつけられてしまった。
まりかがパソコンの電源を落とすのに、ぐずぐずしているのをよそに
蓮がゲームのリモコンを放り出して、バタバタと風呂場に駆け下りていった。
「ほんとむかつく!小学校の低学年の頃までは”おねぇちゃんおねぇちゃん”って、かわいかったのに……。最近は、何度注意しても”まりか”って呼び捨てにするし!やりかけのゲームをリセットしてやろうかな!」
「それだけはやめておいた方が……」
優一は、過去に一度、蓮がやっていたゲームを知らずにリセットしてしまったことがあり、その後1週間も口を聞いてくれなかったことを思い出していた。
その様子を見ていたかおりが「うちは理想的な環境以前に、家族間での問題解決の方が先ね。」と呟いた。
03 第2章 カツオノエボシ(1)予感